震災で失われた風景 元住民が見た80年前の貞山堀

1940アーカイブス

編集委員・石橋英昭
【動画】宮城県の貞山堀を「日本の運河」と紹介するアサヒホームグラフの映像。1940年ごろ公開された
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 伊達政宗に由来し、宮城県沿岸部を結ぶ貞山(ていざん)堀(貞山運河)を撮影した戦前の映像が、朝日新聞社が当時制作した子ども向けニュースから見つかった。現在の仙台市宮城野区蒲生周辺に当たり、1940年前後の人々の暮らしの一端が映し出されている。東日本大震災で失われたふるさとの、貴重な記録でもある。

 ニュースは123回上映され、その「No.43」が「日本にも運河がある 宮城縣(けん) 貞山堀」と題された回。貞山堀のうち、塩釜湾から七北田川までの御舟入堀(おふないりぼり)を中心に、船上から撮影したとみられる。7・0キロのこの区間は、戦後の開発で埋め立てられるなどし、現存は4・4キロだ。

 映像は2分弱。松林が広がる中、かやぶきの民家が見え、刈りとった稲を積み上げた「にお」が並ぶ。幼子をおぶった少女らが立つ木の橋は、当時の高松橋らしい。藩政時代に米を荷揚げし、米蔵が置かれた「舟溜(ふなだま)り」も川港として紹介され、護岸の石積みや小型船がとまっている様子がよくわかる。

 ナレーションでは、貞山堀を日本の運河で「一番大きい」と説明、道路より舟運が物流を担っていたことを強調している。

 当時を知る年配の元住民にとっては、懐かしい風景だ。蒲生・港町内会長を長く務めた平山勲さん(88)=仙台市太白区=によれば、堀の土手にパンツをひっかけ、橋の上から素っ裸で飛び込んでよく遊んだという。水もきれいで、石積みの隙間にいるウナギや、シジミをとっていた。平山家は商店を営んでいて、堀を往来する舟で塩釜から商品を仕入れたという。

 蒲生地区はその後、大きく姿を変えてきた。

 67年に始まった仙台港の建設工事に伴い、まず御舟入堀の北半分が消えた。80年前後には、舟溜りを含む残り部分も埋め立てられ、緑地(公園)に。2011年の東日本大震災では住宅の多くが流失。一帯は災害危険区域に指定され、産業団地として造成が進められている。住民は内陸部に移転し、散り散りになって暮らす。

【動画】今の姿は?貞山堀があった仙台市宮城野区の蒲生地区を訪ねた=佐藤岳史撮影

 元住民らでグループをつくり、語り部活動などをしている佐藤政信さん(72)は「映像を見ると、貞山堀が地域の人々の生活の一部となり、大切な存在だったことがわかる。蒲生のまちはなくなってしまったが、何らかの形で堀を復活できないか」と話す。

 遠藤怜子さん(72)は結婚から震災まで46年、ここで暮らし、津波で夫(当時63)を亡くした。「写真1枚残らなかったから、夫の生まれ育ったまちの様子を知ることができて、うれしい」などと話した。

 今回の映像は、朝日新聞社が制作した子ども向けニュース「アサヒホームグラフ」(当初はアサヒコドモグラフ)から見つかった。ニュースは1938~43年に映画館などで上映され、戦後、連合国軍総司令部(GHQ)に接収されるなどして米国に渡った。その後返還された32回分が、国立映画アーカイブ(旧・東京国立近代美術館フィルムセンター)に所蔵されている。朝日新聞が数年前から調査・整理を進めてきた。(編集委員・石橋英昭

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 貞山堀(貞山運河) 塩釜湾から阿武隈川まで、宮城県塩釜市から岩沼市までの沿岸部をつなぐ運河の総称。初代仙台藩主・伊達政宗のもと、舟運や谷地開拓を目的に江戸時代始めごろから建設され、政宗の贈り名「瑞巌寺殿貞山禅利大居士」から命名された。貴重な土木遺産だ。

 塩釜湾~七北田川間の7・0キロが「御舟入堀」で、1673年に完成。県北と仙台を結び、米を仙台城下に運んだ。七北田川~名取川間の9・5キロは「新堀」といい、明治維新後の士民救済事業として1870~72年に掘られた。名取川~阿武隈川間15・0キロが「木曳堀」。川村孫兵衛重吉の手で1601年ごろまでに築造され、城下町建設の用材運送に役立ったとされる。三つの堀は明治に入って拡幅改修され、小型蒸気船なども運航していた。

 2011年の震災では堤防が壊れ、堀ががれきで埋まるなどした。各地で復興事業が進められている。

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 映像は朝日新聞フォトアーカイブの特集ページ(https://photoarchives.asahi.com/special/?id=20181129121502661208別ウインドウで開きます)でご覧になれます。

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