LEGEND 葛西紀明

誰よりも遠くに飛びたい――。北の大地でノルディックスキー・ジャンプの魅力に取りつかれた少年は、45歳になった今も世界の第一線で大空を舞っている。

長野の屈辱

1998年長野五輪ジャンプ団体。最後に飛んだ船木和喜の着地を、日本中のファンがかたずをのんで見つめた。125メートル。金メダル。原田雅彦らが駆け寄り、倒れ込んで喜んだ。

その輪に、19歳でワールドカップ初優勝を飾った天才ジャンパーの姿はなかった。葛西紀明。メンバー落ちしていた。大会直前、練習でバレーボールをして左足首をねんざ。会場脇から試合を見た。

「落ちろ、金メダルを取るな」。そう思いながら。

長野五輪での屈辱が、葛西の原点だ。「負けたくない。勝ちたい。そういう気持ちを大きくしてくれた。あの悔しさがあるからここまで続けてこられた」

悲運のジャンパーでもある。所属チームの2度の廃部。最愛の母と妹との死別。だが、その度にはい上がってきた。16歳でデビューしたワールドカップの出場試合は、前人未到の500を超えた。

恐怖と危険がつきまとう深い前傾姿勢から「カミカゼ」と呼ばれてきたが、本場欧州の人々は今、敬意を込めてこう評する。

「レジェンド(伝説)」

飛行の軌跡

葛西は飛び続ける。ライバルが舞台を去り、新たな強敵が現れようと。

  • マッチ・ニッカネン

    フィンランド

    1963年生まれ。「鳥人」と呼ばれた。88年カルガリー五輪で個人2種目と団体を制して3冠達成。W杯通算46勝は男子歴代2位。

  • ロイター

    原田雅彦

    日本

    1968年生まれ。92年アルベールビル五輪から5大会連続出場。98年長野五輪では団体金メダル。W杯通算9勝は日本男子3位。

  • ヤンネ・アホネン

    フィンランド

    1977年生まれ。02年ソルトレーク五輪、06年トリノ五輪で団体銀メダル。W杯個人総合優勝2度。通算36勝は男子歴代4位。

  • 船木和喜

    日本

    1975年生まれ。98年長野五輪個人ラージヒル、団体で金メダル、個人ノーマルヒルで銀メダル。W杯通算15勝は日本男子2位。

  • シモン・アマン

    スイス

    1981年生まれ。02年ソルトレーク五輪で個人2種目で金メダル、10年バンクーバー五輪でも個人2冠。W杯通算23勝。

  • 伊東大貴

    日本

    1985年生まれ。14年ソチ五輪団体で銅メダル。W杯は11~12年シーズンに初勝利を含む4勝。13年世界選手権混合団体で優勝。

  • グレゴア・シュリーレンツァウアー

    オーストリア

    1990年生まれ。10年バンクーバー五輪で団体金メダル、個人ノーマルヒル、ラージヒルで銅メダル。W杯通算53勝は男子最多。

葛西のW杯年間総合順位89、91、95年は順位がつかなかった

通算17勝は日本男子歴代1位

10代 早熟の天才ジャンパー

中学3年だった1988年、国際大会のテストジャンパーで優勝者を上回る距離を飛ぶ。16歳でW杯デビュー。アルベールビル五輪は19歳で初出場を果たし、団体4位に貢献。W杯初優勝も10代で成し遂げた。

1992年アルベールビル五輪を前に期待の若手だった葛西紀明

20代 つかみ損ねた栄光

金メダルは手の届くところにあった。世界のトップクラスとして迎えたリレハンメル五輪。団体で勝利目前だったが、最後の原田雅彦がまさかの失敗で銀メダル。そして長野の屈辱。雪辱を期したソルトレーク五輪は大惨敗。29歳でどん底を見た。

1994年リレハンメル五輪のジャンプ団体。最後のジャンプを終えて座り込む原田雅彦選手(中央)に駆け寄る選手たち

30代 五輪メダルは遠く

30代でも世界選手権で初の個人メダル獲得など第一線で活躍。五輪はメダルに届かないが、10年バンクーバーでは団体5位に導く140メートルの大ジャンプ。「世界と戦えると改めて実感、まだまだやめられない」

2010年バンクーバー五輪。団体の2回目で140メートルの大ジャンプを記録した葛西紀明

40代 7度目の正直

41歳でW杯史上最年長優勝を達成。その勢いでソチ五輪は個人ラージヒルで銀メダル。7回目の五輪で初めて個人でのメダルを手にした。団体も銅。日本にとって長野以来の団体メダルは若い仲間と一緒だった。

2014年ソチ五輪個人ラージヒルで銀メダルを獲得した葛西紀明

心・体・技

なぜ葛西は「伝説」と呼ばれるまで現役を続けられてきたのか。

負けず嫌い

強烈な負けず嫌いが、葛西の一番の原動力だ。

1998年長野五輪の雪辱を誓った2002年ソルトレーク五輪。個人ノーマルヒルで、1メートルでも遠くへ飛ぼうと着地を遅らせ、転倒という結果を招いた。屈辱の49位。続く個人ラージヒルも41位に終わった。大舞台に弱く、「ガラスのハート」とも言われた。

1998~99年に日本男子のW杯シーズン最多となる6勝を挙げた葛西紀明(左から2人目)。長野五輪の金メダルメンバーへの対抗心から、髪を金髪に染めた

「五輪で個人メダルを取るまでやめない」。挫折感に打ちのめされながらも、「金メダル」への執念がどん底からはい上がる力となった。所属する土屋ホームが招いたフィンランドのコーチは、自身より年齢も実績も下だったが、助言に耳を傾けて空中姿勢を変えた。

41歳で挑んだ14年ソチ五輪。ラージヒルで自身初の個人メダルとなる銀メダルを手にした。それでも、満足しなかった。「目標の金メダルを取るために、テレマークやタイミングの遅れをなくして完璧にしたい」

日課は走り込み

バレーボール、インターバル走、縄跳びの二重跳び…。体作りのために取り入れる練習で、葛西は「何をやっても僕が一番」と笑う。所属する土屋ホームの綿谷美佐子トレーナーも「加齢とともに落ちると言われるスピードやジャンプ力も落ちていない。若手より優れている」と言う。類いまれな身体能力が、長い競技生活を支えている。

生まれつきの能力だけではない。葛西が40歳を超えても世界の一線で戦える秘密として挙げるのが、日課とする「ランニング」だ。

走り込みをする葛西紀明=2017年5月

ジャンプ競技は、一瞬の跳躍力、踏み切りのタイミング、空中での姿勢が勝負を決める。「若い選手は、体力は必要ないと思っているかもしれない。でも、シーズンを乗り切る上でも体力が大事になる。僕は風邪も引かない」。葛西は走り込みの大事さを説く。

ワールドカップ(W杯)を転戦する欧州遠征中でも必ず走る。同じ北海道下川町出身の後輩、伊東大貴は朝食前に20~30分汗をかく先輩を見て、「ストイックにずっと続けている。自分にはできない」と語る。

明け方まで飲み食いしたとしても、若手より速いペースで走り込むという。

進化するフォーム

「モモンガジャンプ」と言われる空中姿勢は、葛西独自のスタイルだ。手のひらを下に向け、体から離して広げる。羽ばたくようなフォームで大空を舞う。

「2010年ごろからやっている」という。フィンランドなどの施設内で人工的に風を作ってジャンプを疑似体験する風洞実験を重ね、データを取り入れながら編み出した。

風洞実験を重ねる葛西紀明

最近はまねする選手も増え、17年世界選手権個人2冠のシュテファン・クラフト(オーストリア)も参考にしている。

元々はスキーをそろえて飛んでいた。1992年アルベールビル五輪直前にV字に開くフォームに変え、頭の位置が開いたスキーより下になる深い前傾姿勢から「カミカゼ」と呼ばれた。その後は揚力を得るため上半身を微妙に丸めた空中姿勢に変更。今ある技術を捨ててでも、より遠くに飛ぶ技を追求する。だから葛西の進化は終わらない。

平昌へ、家族と共に

(右から)葛西紀明と、母・幸子さん、長女を抱く姉・紀子さん、妹・久美子さん

苦しい家計の中で、好きなジャンプを続けさせてくれた母・幸子さん、近くで応援してくれた姉・紀子さんと妹・久美子さん。葛西は若い頃から、そんな家族のために飛んできた。

だが、放火が原因で母とは1997年に死別。血液の難病に長年苦しんだ妹も2016年に亡くなった。そのとき、W杯で欧州にいた葛西はすぐに帰国しなかった。「ずっと応援していた妹は飛ぶことを望んでいるはず」。姉に励まされ、世界フライング選手権で5位に入った。

今回、結婚して初めて迎える五輪だ。14年ソチ五輪個人ラージヒルで銀メダルを獲得した直後、現地から怜奈さんに電話でプロポーズし、帰国直後に結婚した。16年1月には長女・璃乃(りの)ちゃんを授かった。

冬季五輪史上最多の8回目の五輪出場となる葛西は言う。「妻と娘にメダルをみせてやりたい」。新しい家族が45歳を駆り立てる。

葛西紀明と長女・璃乃(りの)ちゃん

2018年1月24日 公開

取材:
勝見壮史
デザイン・制作:
寺島隆介、佐久間盛大(朝日新聞メディアプロダクション)
企画:
宮本茂頼
写真提供:
葛西紀明オフィシャルブログ、浜谷紀子さん
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