メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

05月19日朝日新聞デジタル朝刊記事一覧へ(朝5時更新)

新着記事一覧へ

ヒロシマ カメラの証言

ヒロシマ、カメラの証言

 朝日新聞大阪本社写真部員だった故・宮武甫氏は原爆投下3日後、陸軍報道班員として広島市内を撮影。焦土と化した街や負傷した人々など、被爆の惨状を世界に伝えました。戦後70年を機にデジタル処理で画像を修復、公開しました(2015/8/5公開)

朝日写真フォトアーカイブ

プロフィール宮武 甫(みやたけ・はじめ)

1914年生まれ。41年に朝日新聞入社。大阪本社写真部員だった当時、被爆3日後の45年8月9日から12日まで広島に入った。当時のネガなど計119カットが残されている。85年に死去。

写真をクリックすると、大きな画像が表示されます。環境によっては表示に時間がかかる場合があります。

購入・利用について(おわけできない写真もあります)

崩れたビル 銀行・新聞社…

  • 農林中央金庫広島支所。1920年、銀行建築を多く手がけた西村好時が清水組在職中に設計した。「位置も建物も広島一」と言われたれんが造一部鉄筋コンクリートの上部アーチと装飾が美しい。原爆によって屋根は押し

  • 帝国銀行広島支店の内部営業室から南と西側の壁に向かって。爆心に面した西側の壁は破壊され、営業室の周りのバルコニーを支える柱は折れ、バルコニーは落下した。写真左端の写っていない一階部分に書庫、金庫室、支

  • 帝国銀行広島支店の内部営業室から南側に向かって。写真左から階段室、支店長室。爆心地から360メートル=8月10~11日ごろ撮影、広島市革屋町(現在の中区本通)

  • 中央部にあった、金庫室付近は壁や天井も頑丈で、その中にあったアメリカ製の金庫は、強い熱線や火災にも耐え、内部の現金や帳簿は無事だった。この金庫を製造したモスラー社は懸賞金付きで原爆に耐えた金庫を募集、

  • 爆風でつぶれた広島瓦斯本社。西側と南側の壁は残ったが、強い爆圧で爆心方向の北側は、3階から地階までが折り重なって崩壊した。バルコニーを丸柱で支えた玄関は、かろうじて残った。キャハンに水筒、杖にすがって

  • 広島瓦斯本社ビルの天井は、強い爆圧で3階建ての建物は天井と床が重なって1枚となり地下室まで崩れた。爆心方向の壁(東南東)は崩壊、その後、火災は2日間続いたという。爆心地から210メートル=8月10~1

  • 被爆直後、相生橋東詰にあった日本赤十字社広島支部の倉庫。左側に日赤支部の木造の建物があったが全焼した=8月10~11日ごろ撮影、広島市(現・中区)の相生橋東詰

  • 広島商業会議所は、爆風により窓や窓枠はすべて吹き飛んだ。かろうじて残った外郭には、通常の建物では8階にも匹敵する望楼があり、廃虚の広島の写真撮影のポイントになった。その後、建物は修理され64年まで使用

  • 消息不明の支局員を捜し歩いていた、朝日新聞社広島支局長の浜田俊夫氏(右端)に偶然出会った。同支局長は大阪へ出張中だったため難をまぬがれた。左から日本勧業銀行広島支店、中国新聞社新館、福屋旧館、右に広島

  • 手前の人がいる入り口は空爆に備え、町内ごとに数カ所設けられた防空壕跡。がらんどう状態で立ち尽くす建物は、全焼した中国新聞社新館。新聞発行の設備機材のすべてと100余名の社員を失い、やむなく被爆翌日から

  • 原爆で1階部分が破壊された鉄筋コンクリートの建物。広島平和記念資料館の調査でも建物名、撮影場所不明。爆心地からの距離も不明=8月10~11日ごろ撮影、広島市内

  • 原爆で1階部分が破壊された鉄筋コンクリートの建物。広島平和記念資料館の調査でも建物名、撮影場所不明。爆心地からの距離も不明=8月10~11日ごろ撮影、広島市内

焦土と化した街(パノラマ)

  • 広島東警察署西側付近、広電本線電車軌道南側の鎌田証券跡から電車通りを中心にしたパノラマ写真。八丁堀付近の非木造建物の他は、両サイドがれきで、メーンの電車通りや、一部の裏道はがれきもかたづけられ、人や車

  • 広島城跡から西練兵場と陸軍施設をとらえたパノラマ写真。産業奨励館(現・原爆ドーム)が見える。被爆時まで多聞櫓、平櫓、表門(橋御門)は残っていたが、爆風で倒壊し、全焼した。また二の丸内の木造兵舎も全壊全

  •  

街にあふれた被爆者

  • 広島赤十字病院で治療を受ける人。治療にあたる医師も負傷している。三角巾で腕をつった姿が痛々しい。爆心地から1.5キロ=8月10日撮影、広島市千田町1丁目

  • 焼けてがらんどうになった福屋百貨店に収容された兵士は、重いやけどに苦しんでいた。西練兵場付近の、比較的遮蔽された場所で被爆したと思われるこの兵士は、正面から熱線を浴び、皮膚が露出した部分が熱線で焼かれ

  • 広島赤十字病院に運び込まれたひん死の女性。被爆し顔面に重い火傷を負った。寝かされた「むしろ」の端の下は土のようで、本館玄関付近の前庭の日陰か。医師、看護婦を始め病院関係者にも69人の犠牲者を出し、約8

  • 広島赤十字病院の玄関前は殺到する負傷者であふれた。収容しきれない患者は屋外の日陰に寝かされて治療を待った。爆心地から1.5キロ=8月10日撮影、広島市千田町1丁目

  • 広島赤十字病院本館1階の病室。爆風で窓枠は飛ばされ、吹きさらしになった病室に収容された人々。薄い布団をびっしりと敷き並べ、負傷者が横たわっている。爆心地から1.5キロ=8月10日撮影、広島市千田町1丁

  • 爆心地で被爆し、治療を受ける兵士。例外的に軽い火傷だ。首から背中、背中から腰にかけてひし形の奇妙な形にやけどし、白い薬がぬられている。両側の肩甲骨のあたりが無傷なのは何かを背負っていたのか、熱線からそ

名所・旧跡、一瞬で崩壊

  • レンガ造り3階建ての広島県産業奨励館(原爆ドーム)。1915年4月、広島県物産陳列館として藩政期からの町並みの中に姿を現わしたヨーロッパ風のドーム建物は、たちまち広島名所の一つに数えられた。44年3月

  • 広島城は五層天主閣で毛利輝元や福島正則の居城だった。爆風で跡形もなく崩壊し、城内の老杉は全滅。付近の陸軍中国軍管区司令部、歩兵第十一連隊、広島陸軍幼年学校などの軍用施設も破壊された。現存する被爆後の天

  • 広島城跡本丸上段東から西に向かって。洋風木造二階建ての旧大本営は爆風で全壊した。建物の残骸の中には中部軍管区派遣の調査団員と思われる人たちの姿が見える。爆心地から950メートル=8月10~11日ごろ撮

  • 1928年、下村時計店は鉄筋コンクリート造2階建の上に大きな時計塔を配したデザインで建てられ、本通のハイカラなランドマークとして親しまれた。開口部6.3メートルの両側のコンクリート壁が、構造材的役割を

  • 基礎の鉄骨がアメのように曲がり、腰砕けになった下村時計店のビル。強い爆風を受けて東に倒れ込み、1階部分が押しつぶされ、2階建ての建物が平屋建てのようになった。右端には板切れに書かれた「連絡先山口縣・・

  •  

鉄道・線路・駅も大破

  • 広島電鉄の150型市内電車。満員の乗客を乗せて広島駅方面へ運行中に被爆、全壊全焼したが、乗り合わせた共同通信広島支局の記者は、人の陰になってただ一人だけ助かった。おおむね10日中には全壊していた車輌は

  • 被爆後の国鉄広島駅。爆心から遠いためか、窓枠などは爆風で吹き飛ばされているものの、他の建物と比べてあまり被害を受けていない。原爆の爆風は、増築したばかりの待合室をもぎ取り、本体の屋根は押し下げられ、そ

  • 爆風で大きく波を打つ市内電車の稲荷橋鉄橋。中央部の木造の橋脚の一部が折れ、枕木やレールは波打ち、熱線は枕木の一部を燃え上がらせた。被爆直後から東方面へ逃れる被爆者の多くはこの橋を渡った。爆心地から13

  • 爆風で本体の屋根は押し下げられ、変形・破壊された広島駅構内。内部は全焼し多くの死傷者が出た。後日焼け跡からは78人の遺体が収容された。人も物も混乱の中、7日夕方には宇品線、8日には広島・横川間など10

  • 写真の消防ポンプ格納庫は、広島駅前の倉庫群の中にあった。防空壕のような作りで、焼夷弾などの攻撃から守るような作りになっていた。旧式の手押しポンプ2台は外に出され、入口には軍服らしいものがかけられ、救護

  • 爆風で土止めの木のさくが壊れ、崩れてしまった消防ポンプ格納庫。戦前の消防署は東西2消防本署で、鉄筋コンクリート造の東消防署は内部が全焼し、木造二階建の西消防署は全壊全焼した。庫内にあった消防車なども全

負傷した家族・子ども

  • 包帯姿が痛々しい母子。手押し車前側の少女は相崎恵美子さん、その後は母親のハツヨさん、二人は隣組の20~30人と、自宅近くで建物疎開中被爆し、恵美子さんは顔と左腕、ハツヨさんは両足と左腕に大やけどを負っ

  • 広島赤十字病院で中央の子どもは、頭部の負傷の手当てを受け、鉄板のようなものの上に寝かされている。奥の乳児は、食事や水を与えられているが、口にする気力もないようである。周りはがれきがむき出しで屋外と思わ

  • 荷台の上に少しワラを敷き、薄い座布団の上に横たわった少女の口元に湯飲みを近づける救護隊員。救護隊員は安芸郡からの救護隊か。救護隊員の後には、頭からスッポリ黒布をかぶった被災者も見える。暑い日ざしをさけ

  • 横たわった子供たち。左後ろの建物は八丁堀福屋旧館北の缶詰工場で、中央には広島流川教会、右には広島県酒造醤油組合南側の塀と防空壕、手前トラックとの間には広電本線電車軌道がある。爆心地から920メートル=

  • 手の皮がむけ、水泡が一面に生じるようなひどいやけどにもマーキュロ、オリーブ油、包帯で「ふき、塗り、巻く」以外、手当てのしようがなかった。正面から熱線を浴び、ひたいから頬、手の甲にやけどを負った少年が治

  • やけどでまぶたが腫れ、目はつぶれている。少年が座っているのは長いすで、待合室のいすを持ち出し玄関先での外来治療用に流用している。爆心地から1.5キロ=8月10日撮影、広島市千田町1丁目

爆風を受けた木々

  • 爆風で中間から折れ、爆心の反対方向に倒れ込んだマツ。右端で松を見上げる人は中部軍管区の調査団員とみられる。左側には広島市水道部基町庁舎作業場、中央には安田銀行広島支店、大林組広島支店、広島中央電話局。

  • 広島城大天守跡付近から北側小桝形付近に向かって。北側の曲輪に植えられたスギは、すべて折れたり倒れたりした。単に爆心からの爆風だけではなく、小さなつむじ風も起こったらしく、それぞれのスギは方向を定めず折

  • 戦前は花見でにぎわった比治山公園は爆心から約2キロ。遮る物がなく、サクラの多くは強い爆風で折れたり、倒れたりして無残な姿になった=8月10日~11日ごろ撮影、広島市比治山公園

  • 中国軍管区司令部1号庁舎(現在の広島護国神社境内)北側の広島城跡本丸上段の東西の土塁に植えられた松などの樹木は、強い熱線で焼かれ、周りの木造の兵舎や陸軍病院も全壊全焼し、死の町になった。炎天下に置き去

  • 爆心から約3キロのこの付近では、樹木への被害はほとんどなく、プラタナスの並木は葉を茂らせている。歩道奥の商店街を見ると、木造の店舗は柱が折れたり傾いたりして、爆風の影響の強さがうかがえる。爆心付近のよ

  •  

民家、がれきの山

  • 爆心地から2~3キロの地点では、火災が起こらなくても大地震の後の被害のようだ。右が爆心地方向=8月10~11日ごろ撮影、広島市蟹屋町

  • 爆心から遠い木造家屋も、原爆の爆風で吹き飛ばされた。全壊地域の南の端に位置し、電車通りに面したこの住宅は写真のほぼ真後からの爆風で、一階がくずれ、二階の壁や屋根がおおいかぶさった。被爆4、5日後ともな

  • 皆実町2丁目の東西の通り。通りの右手前、爆風で裂けながらもかろうじて架線につり下げられ、倒れなかった電柱。右後ろからの爆風で通りの左側、左に向って倒壊した作業場の壁など。全体の様子から写真右から爆風を

  • 全壊地域の南の端に位置し、電車通りに面した住宅や商家。爆風で屋根瓦はすべてめくれ、一部の建物は一階がつぶれ、壁や屋根がおおいかぶさった。写真右側には手押し車に小さな家財を運び出す婦人や、戸板などを持ち

  • 写真右奥側からの爆風を受け、屋根瓦はめくれ、住宅の柱は折れたり、外れたりし、土壁も吹き飛ばされた。左家屋の後ろに広島瓦斯広島工場の2基あるガスホルダーのうち、西側のタンク。右に写る人は中部軍管区派遣調

  • 写真右方向からの爆風で屋根瓦は吹き飛ばされ、風の通り道になった建物の右側は破壊された。道路を通行中のダットサントラックは、荷台に軍人らしい人の姿が見られ、中部軍管区派遣調査団のものと思われる。爆心付近

  • 荒神橋中央付近から南南西に向かって。猿猴川と並行して、広電比治山線電車軌道が左右に通り、写真左端付近で直角にまがり、比治山の裾を巻いて、京橋川に当る。このラインが全壊全焼と、半壊区域の明暗を分けた。後

  • 左から芸備銀行本店、農林中央金庫広島支所、住友銀行広島支店、三和銀行広島支店、帝国銀行広島支店、中央より右方向に日本生命広島支店、広島銀行集会所、明治生命広島支店、広島富国館、袋町国民学校。右端に国泰

  •  

奪われた無数の命

  • 住吉橋東詰下流側、建物疎開跡に設けられた臨時火葬場。稲ワラや木切れ、油などを使い火葬を行なった。火勢を強めるため、上からトタン板で覆いをした。この火葬場では救護所で死亡した人とともに、本川などに浮かん

  • 仮設された焼け跡の臨時火葬場。一瞬にして都市機能を失い、14万余人(12月末まで)の命が失われ、市内の焼け跡のあらゆる所で火葬が行われた。被爆した多くの兵士は崩壊をまぬがれた福屋百貨店に収容されたが、

  •  
デジタル処理で高画質化

 宮武さんの写真は、朝日新聞社が2005年に広島平和記念資料館に提供しています。しかし当時のネガフィルムには傷や汚れが目立ち、画質がいい状態とはいえませんでした。このたび朝日新聞フォトアーカイブは1年がかりで修復作業を行い、画像にデジタル処理をして高画質化しました。修復された写真データは、2018年にリニューアルオープン予定の同資料館に再び提供される予定です。

今、あなたにオススメ(PR)

PR注目情報

注目コンテンツ

PR注目情報

  • 働き方・就活