夏目漱石「三四郎」(第九十六回)十の三

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 玄関には美禰子の下駄が揃えてあった。鼻緒(はなお)の二本が右左で色が違う。それで能く覚えている。今仕事中だが、よければ上れという小女(こおんな)の取次に尾(つ)いて、画室へ這入った。広い部屋である。細長く南北(みなみきた)に延びた床(ゆか)の上は、画家らしく、取り乱れている。先ず一部分には絨毯(じゅうたん)が敷いてある。それが部屋の大きさに較べると、まるで釣(つ)り合(あい)が取れないから、敷物として敷いたというよりは、色の好い、模様の雅(が)な織物として放(ほう)りだしたように見える。離れて向(むこう)に置いた大きな虎の皮もその通り、坐(すわ)るための、設(もう)けの座とは受け取れない。絨毯とは不調和な位置に筋違(すじかい)に尾を長く曳(ひ)いている。砂を錬り固めたような大きな甕(かめ)がある。その中から矢が二本出ている。鼠色の羽根と羽根の間が金箔(きんぱく)で強く光る。その傍(そば)に鎧(よろい)もあった。三四郎は卯(う)の花縅(はなおど)しというのだろうと思った。向う側の隅(すみ)にぱっと眼を射るものがある。紫の裾模様(すそもよう)の小袖(こそで)に金糸(きんし)の刺繡(ぬい)が見える。袖から袖へ幔幕(まんまく)の綱を通して、虫干(むしぼし)の時のように釣るした。袖は丸くて短い。これが元禄かと三四郎も気が付いた。その外(ほか)には画(え)が沢山ある。壁に掛けたのばかりでも大小合せるとよほどになる。額縁を附けない下画というようなものは、重ねて巻いた端(はじ)が、巻き崩れて、小口(こぐち)をしだらなく露わした。

 描かれつつある人の肖像は、この彩色(いろどり)の眼を乱す間にある。描かれつつある人は、突き当りの正面に団扇(うちわ)を翳(かざ)して立った。描く男は丸い脊(せ)をぐるりと返して、調色板(パレット)を持ったまま、三四郎に向った。口に太い烟管(パイプ)を啣(くわ)えている。

 「遣って来たね」といって烟…

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