夏目漱石「三四郎」(第九十四回)十の一
広田先生が病気だというから、三四郎が見舞に来た。門を這入(はい)ると、玄関に靴が一足揃(そろ)えてある。医者かも知れないと思った。いつもの通り勝手口へ回ると誰もいない。のそのそ上り込んで茶の間へ来ると、座敷で話し声がする。三四郎はしばらく佇(たたず)んでいた。手にかなり大きな風呂敷包を提(さ)げている。中には樽柿(たるがき)が一杯入っている。今度来る時は、何か買ってこいと、与次郎の注意があったから、追分の通で買って来た。すると座敷のうちで、突然どたりばたりという音がした。誰か組打(くみうち)を始めたらしい。三四郎は必定(ひつじょう)喧嘩(けんか)と思い込んだ。風呂敷包を提げたまま、仕切りの唐紙(からかみ)を鋭どく一尺ばかり明けて屹(きっ)と覗(のぞ)き込んだ。広田先生が茶の袴(はかま)を穿(は)いた大きな男に組み敷かれている。先生は俯伏(うつぶし)の顔を際(きわ)どく畳から上げて、三四郎を見たが、にやりと笑いながら、
「やあ、御出(おいで)」といった。上の男はちょっと振り返ったままである。
「先生、失礼ですが、起きて…
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