夏目漱石「三四郎」(第八十八回)九の四

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 帰り路(みち)に与次郎が三四郎に向って、突然借金の言訳をし出した。月の冴(さ)えた比較的寒い晩である。三四郎は殆(ほと)んど金の事などは考えていなかった。言訳を聞くのでさえ本気ではない。どうせ返す事はあるまいと思っている。与次郎も決して返すとはいわない。ただ返せない事情を色々に話す。その話し方のほうが三四郎にはよほど面白い。――自分の知ってるさる男が、失恋の結果、世の中が厭(いや)になって、とうとう自殺をしようと決心したが、海もいや河もいや、噴火口はなおいや、首を縊(くく)るのは尤(もっと)もいやという訳で、やむをえず短銃(ピストル)を買って来た。買って来て、まだ目的を遂行しないうちに、友達が金を借りに来た。金はないと断ったが、是非どうかしてくれと訴えるので、仕方なしに、大事の短銃(ピストル)を借して遣った。友達はそれを質(しち)に入れて一時を凌(しの)いだ。都合がついて、質を受出して返しに来た時は、肝心の短銃(ピストル)の主(ぬし)はもう死ぬ気がなくなっていた。だからこの男の命は金を借りに来られたために助かったと同じ事である。

 「そういう事もあるからなあ」と与次郎がいった。三四郎にはただ可笑(おか)しいだけである。その外(ほか)には何らの意味もない。高い月を仰いで大きな声を出して笑った。金を返されないでも愉快である。与次郎は、

 「笑っちゃいかん」と注意し…

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