夏目漱石「三四郎」(第八十四回)八の十

有料記事

写真・図版
[PR]

 女は歩を回(めぐ)らして、別室へ入った。男は一足後(あと)から続いた。光線の乏しい暗い部屋である。細長い壁に一列に懸(かか)っている深見先生の遺画を見ると、なるほど原口さんの注意した如く殆(ほと)んど水彩ばかりである。三四郎が著(いちじ)るしく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少くって、対照に乏しくって、日向(ひなた)へでも出さないと引き立たないと思うほど地味(じみ)に描(か)いてあるという事である。その代り筆が些(ちっ)とも滞(とどこお)っていない。殆(ほと)んど一気呵成(いっきかせい)に仕上(しあげ)た趣(おもむき)がある。絵の具の下に鉛筆の輪廓が明かに透いて見えるのでも、洒落(しゃらく)な画風がわかる。人間などになると、細くて長くて、まるで殻竿(からさお)のようである。ここにもヴェニスが一枚ある。

 「これもヴェニスですね」と女が寄って来た。

 「ええ」といったが、ヴェニ…

この記事は有料記事です。残り1394文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

【お得なキャンペーン中】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら