夏目漱石「三四郎」(第七十六回)八の二

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 それから今日(こんにち)に至るまで与次郎は金を返さない。三四郎は正直だから下宿屋の払(はらい)を気にしている。催促はしないけれども、どうかしてくれればいいがと思って、日を過すうちに晦日(みそか)近(ぢか)くなった。もう一日二日しか余っていない。間違ったら下宿の勘定を延ばして置こうなどという考えはまだ三四郎の頭に上(のぼ)らない。必ず与次郎が持って来てくれる――とまでは無論彼を信用していないのだが、まあどうか工面(くめん)して見よう位の親切気(しんせつぎ)はあるだろうと考えている。広田先生の評によると与次郎の頭は浅瀬の水のように始終(しじゅう)移っているのだそうだが、むやみに移るばかりで責任を忘れるようでは困る。まさかそれほどの事もあるまい。

 三四郎は二階の窓から往来を眺めていた。すると向(むこう)から与次郎が足早(あしばや)にやって来た。窓の下まで来て仰向(あおむ)いて、三四郎の顔を見上げて、「おい、おるか」という。三四郎は上から、与次郎を見下(みおろ)して、「うん、おる」という。この馬鹿見たような挨拶が上下(うえした)で一句交換されると、三四郎は部屋の中へ首を引込める。与次郎は階子段(はしごだん)をとんとん上がって来た。

 「待っていやしないか。君の…

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