夏目漱石「三四郎」(第七十回)七の二

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 三四郎が広田の家(うち)へ来るには色々な意味がある。一つは、この人の生活その他が普通のものと変っている。ことに自分の性情とは全く容(い)れないような所がある。そこで三四郎はどうしたらああなるだろうという好奇心から参考のため研究に来る。次にこの人の前に出ると呑気(のんき)になる。世の中の競争が余り苦にならない。野々宮さんも広田先生と同じく世外(せがい)の趣(おもむき)はあるが、世外の功名心のために、流俗(りゅうぞく)の嗜慾(しよく)を遠ざけているかのように思われる。だから野々宮さんを相手に二人ぎりで話していると、自分も早く一人前の仕事をして、学海に貢献しなくては済まないような気が起(おこ)る。焦慮(いらつ)いて堪(たま)らない。そこへ行くと広田先生は太平である。先生は高等学校でただ語学を教えるだけで、外に何の芸もない――といっては失礼だが、外に何らの研究も公(おおや)けにしない。しかも泰然と取り澄ましている。其処(そこ)に、この暢気(のんき)の源(みなもと)は伏在しているのだろうと思う。三四郎は近頃女に囚(とらわ)れた。恋人に囚われたのなら、かえって面白いが、惚(ほ)れられているんだか、馬鹿にされているんだか、怖がっていいんだか、蔑(さげす)んでいいんだか、廃(よ)すべきだか、続けべきだか訳の分らない囚われ方である。三四郎は忌々(いまいま)しくなった。そういう時は広田さんに限る。卅分ほど先生と相対(あいたい)していると心持が悠揚になる。女の一人や二人どうなっても構わないと思う。実をいうと、三四郎が今夜出掛けて来たのは七分方(がた)この意味である。

 訪問理由の第三は大分(だいぶ)矛盾している。自分は美禰子(みねこ)に苦しんでいる。美禰子の傍(そば)に野々宮さんを置くとなお苦しんで来る。その野々宮さんに尤(もっと)も近いものはこの先生である。だから先生の所へ来ると、野々宮さんと美禰子との関係が自(おのずか)ら明瞭になってくるだろうと思う。これが明瞭になりさえすれば、自分の態度も判然極(き)める事が出来る。そのくせ二人の事をいまだかつて先生に聞いた事がない。今夜は一つ聞いて見ようかしらと、心を動かした。

 「野々宮さんは下宿なすった…

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