夏目漱石「三四郎」(第六十五回)六の十

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 三四郎は目の着け所が漸(ようや)く解ったので、先ず一段落告げたような気で、安心していると、忽(たちま)ち五、六人の男が眼の前に飛んで出た。二百メートルの競走が済んだのである。決勝点は美禰子とよし子が坐(すわ)っている真正面で、しかも鼻の先だから、二人を見詰めていた三四郎の視線のうちには是非ともこれらの壮漢(そうかん)が這入(はい)って来る。五、六人はやがて十二、三人に殖えた。みんな呼吸(いき)を喘(はず)ませているように見える。三四郎はこれらの学生の態度と自分の態度とを比べて見て、その相違に驚いた。どうして、ああ無分別に走(か)ける気になれたものだろうと思った。しかし婦人連(れん)は悉(ことごと)く熱心に見ている。そのうちでも美禰子とよし子は尤(もっと)も熱心らしい。三四郎は自分も無分別に走けて見たくなった。一番に到着したものが、紫の猿股(さるまた)を穿(は)いて婦人席の方を向いて立っている。能く見ると昨夜(ゆうべ)の親睦会で演説をした学生に似ている。ああ脊(せい)が高くては一番になるはずである。計測掛(けいそくがかり)が黒板に二十五秒七四と書いた。書き終って、余りの白墨を向(むこう)へ抛(な)げて、こっちをむいた所を見ると野々宮さんであった。野々宮さんは何時(いつ)になく真黒なフロックを着て、胸に掛員(かかりいん)の徽章(きしょう)を付けて、大分(だいぶ)人品(じんぴん)が宜(い)い。半帛(ハンケチ)を出して、洋服の袖(そで)を二、三度はたいたが、やがて黒板を離れて、芝生の上を横切って来た。丁度美禰子とよし子の坐っている真前(まんまえ)の所へ出た。低い柵の向側(むこうがわ)から首を婦人席の中へ延ばして、何かいっている。美禰子は立った。野々宮さんの所まで歩いて行く。柵の向うとこちらで話しを始めたように見える。美禰子は急に振り返った。嬉(うれ)しそうな笑(わらい)に充ちた顔である。三四郎は遠くから一生懸命に二人を見守っていた。すると、よし子が立った。また柵の側(そば)へ寄って行く。二人が三人になった。芝生の中では砲丸抛(ほうがんなげ)が始った。

 砲丸抛ほど腕の力の要(い)るものはなかろう。力の要る割にこれほど面白くないものも沢山(たんと)ない。ただ文字通り砲丸を抛げるのである。芸でも何でもない。野々宮さんは柵の所で、ちょっとこの様子を見て笑っていた。けれども見物の邪魔になると悪いと思ったのであろう。柵を離れて芝生の中へ引き取った。二人の女も元の席へ復した。砲丸は時々抛げられている。第一どの位遠くまで行くんだか殆(ほと)んど三四郎には分らない。三四郎は馬鹿々々しくなった。それでも我慢して立っていた。漸(ようや)くの事で片が付いたと見えて、野々宮さんはまた黒板へ十一メートル三八と書いた。

 それからまた競走があって…

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