夏目漱石「三四郎」(第三十六回)四の八

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 三四郎には三つの世界が出来た。一つは遠くにある。与次郎のいわゆる明治十五年以前の香(か)がする。凡(すべ)てが平穏である代りに凡てが寐坊気(ねぼけ)ている。尤(もっと)も帰るに世話は入(い)らない。戻ろうとすれば、すぐに戻れる。ただいざとならない以上は戻る気がしない。いわば立退場(たちのきば)のようなものである。三四郎は脱ぎ棄(すて)た過去を、この立退場の中へ封じ込めた。なつかしい母さえ此処(ここ)に葬(ほうむ)ったかと思うと、急に勿体(もったい)なくなる。そこで手紙が来た時だけは、暫(しばら)くこの世界に●徊(ていかい、●は低のへんがぎょうにんべん)して旧歓を温める。

 第二の世界のうちには、苔(こけ)の生えた煉瓦造(れんがづく)りがある。片隅(かたすみ)から片隅を見渡すと、向うの人の顔がよく分らないほどに広い閲覧室がある。梯子(はしご)を掛けなければ、手の届きかねるまで高く積み重ねた書物がある。手摺(てず)れ、指の垢(あか)、で黒くなっている。金文字で光っている。羊皮、牛皮、二百年前(ぜん)の紙、それから凡ての上に積った塵(ちり)がある。この塵は二、三十年かかって漸(ようや)く積った貴(たっと)い塵である。静かな月日に打ち勝つほどの静かな塵である。

 第二の世界に動く人の影を見…

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