夏目漱石「三四郎」(第二十三回)三の九

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 飯が済むと下女は台所へ下(さが)る。三四郎は一人になる。一人になって落付くと、野々宮君の妹の事が急に心配になって来た。危篤なような気がする。野々宮君の駆付け方が遅いような気がする。そうして妹がこの間見た女のような気がして堪(た)まらない。三四郎はもう一遍、女の顔付と眼付と、服装とを、あの時あのままに、繰返して、それを病院の寝台(ねだい)の上に乗せて、その傍(そば)に野々宮君を立たして、二、三の会話をさせたが、兄では物足らないので、何時(いつ)の間(ま)にか、自分が代理になって、色々親切に介抱していた。ところへ汽車が轟(ごう)と鳴って孟宗藪のすぐ下を通った。根太(ねだ)の具合か、土質のせいか座敷が少し震えるようである。

 三四郎は看病をやめて、座敷を見廻した。いか様(さま)古い建物と思われて、柱に寂(さび)がある。その代り唐紙(からかみ)の立附(たてつけ)が悪い。天井は真黒だ。洋燈(ランプ)ばかりが当世に光っている。野々宮君のような新式な学者が、物数奇(ものずき)にこんな家(うち)を借りて、封建時代の孟宗藪を見て暮らすのと同格である。物数奇ならば当人の随意だが、もし必要に逼(せま)られて、郊外に自(みずか)らを放逐(ほうちく)したとすると、甚(はなは)だ気の毒である。聞く所によると、あれだけの学者で、月にたった五十五円しか、大学から貰(もら)っていないそうだ。だからやむをえず私立学校へ教えに行くのだろう。それで妹に入院されては堪(たま)るまい。大久保へ越したのも、あるいはそんな経済上の都合かも知れない。……

 宵(よい)の口(くち)では…

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