夏目漱石「三四郎」(第十六回)三の二

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 それから約十日ばかり立(たっ)てから、漸(ようや)く講義が始まった。三四郎が始めて教室へ這入(はいっ)て、外(ほか)の学生と一所に先生の来るのを待っていた時の心持は実に殊勝なものであった。神主(かんぬし)が装束(しょうぞく)を着けて、これから祭典でも行おうとする間際(まぎわ)には、こういう気分がするだろうと、三四郎は自分で自分の了見を推定した。実際学問の威厳に打たれたに違ない。それのみならず先生が号鐘(ベル)が鳴って十五分立っても出て来ないので益(ますます)予期から生ずる敬畏の念を増した。そのうち人品(じんぴん)のいい御爺(おじい)さんの西洋人が戸を開けて這入って来て、流暢(りゅうちょう)な英語で講義を始めた。三四郎はその時answer(アンサー)という字はアングロ・サクソン語のand-swaru(アンドスワル)から出たんだという事を覚えた。それからスコットの通った小学校の村の名を覚えた。いずれも大切に筆記帳に記して置いた。その次には文学論の講義に出た。この先生は教室に這入って、ちょっと黒板(ボールド)を眺めていたが、黒板の上に書いてあるGeschehen(ゲシェーヘン)という字とNachbild(ナハビルド)という字を見て、はあ独逸(ドイツ)語かといって、笑いながらさっさと消してしまった。三四郎はこれがために独逸語に対する敬意を少し失ったように感じた。先生は、それから古来文学者が文学に対して下(くだ)した定義をおよそ二十ばかり列(なら)べた。三四郎はこれも大事に手帳に筆記して置いた。午後は大教室に出た。その教室には約七、八十人ほどの聴講者がいた。従って先生も演説口調であった。砲声一発浦賀(うらが)の夢を破ってという冒頭であったから、三四郎は面白がって聞いていると、しまいには独逸(ドイツ)の哲学者の名が沢山出て来て甚(はなは)だ解(げ)しにくくなった。机の上を見ると、落第という字が美事(みごと)に彫(ほ)ってある。よほど閑(ひま)に任せて仕上げたものと見えて、堅い樫(かし)の板を奇麗(きれい)に切り込んだ手際(てぎわ)は素人(しろうと)とは思われない。深刻の出来である。隣の男は感心に根気よく筆記をつづけている。覗(のぞ)いて見ると筆記ではない。遠くから先生の似顔をポンチに書(かい)ていたのである。三四郎が覗くや否や隣の男はノートを三四郎の方に出して見せた。画(え)は旨(うま)く出来ているが、傍(そば)に久方(ひさかた)の雲井(くもい)の空の子規(ほととぎす)と書いてあるのは、何の事だか判じかねた。

 講義が終ってから、三四郎は何となく疲労したような気味(きみ)で、二階の窓から頰杖(ほおづえ)を突いて、正門内の庭を見下していた。ただ大きな松や桜を植えてその間に砂利(じゃり)を敷いた広い道を付けたばかりであるが、手を入れ過ぎていないだけに、見ていて心持が好(い)い。野々宮君の話によると此処(ここ)は昔はこう奇麗ではなかった。野々宮君の先生の何とかいう人が、学生の時分(じぶん)馬に乗って、此処を乗り廻すうちに、馬がいう事を聞かないで、意地を悪くわざと木の下を通るので、帽子が松の枝に引っかかる。下駄(げた)の歯が鐙(あぶみ)に挟(はさ)まる。先生は大変困っていると、正門前の喜多床(きたどこ)という髪結床(かみゆいどこ)の職人が大勢出て来て、面白がって笑っていたそうである。その時分には有志のものが醵金(きょきん)して構内に厩(うまや)をこしらえて、三頭の馬と、馬の先生とを飼って置いた。ところが先生が大変な酒呑(さけのみ)で、とうとう三頭のうちの一番好(い)い白い馬を売って飲んでしまった。それはナポレオン三世時代の老馬であったそうだ。まさかナポレオン三世時代でもなかろう。しかし呑気(のんき)な時代もあったものだと考えていると、さっきポンチ画(え)をかいた男が来て、

 「大学の講義は詰らんなあ」…

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