夏目漱石「三四郎」(第五回)一の五

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 三四郎はこの男に見られた時、何となく極りが悪かった。本でも読んで気を紛(まぎ)らかそうと思って、革鞄を開けて見ると、昨夜(ゆうべ)の西洋手拭(タウエル)が、上の所にぎっしり詰っている。そいつを傍(わき)へ搔(か)き寄せて、底の方から、手に障(さわ)った奴を何でも構わず引出すと、読んでも解らないベーコンの論文集が出た。ベーコンには気の毒な位薄っぺらな粗末な仮綴(かりとじ)である。元来汽車の中で読む了見(りょうけん)もないものを、大きな行李(こり)に入れ損(そく)なったから、片付けるついでに提(さげ)革鞄(かばん)の底へ、外の二、三冊と一所に放(ほう)り込(こん)で置いたのが、運悪く当選したのである。三四郎はベーコンの廿三頁(ページ)を開いた。他(ほか)の本でも読めそうにはない。ましてベーコンなどは無論読む気にならない。けれども三四郎は恭(うやうや)しく廿三頁を開いて、万遍(まんべん)なく頁全体を見廻していた。三四郎は廿三頁の前で一応昨夜(ゆうべ)の御浚(おさらい)をする気である。

 元来あの女は何だろう。あんな女が世の中にいるものだろうか。女というものは、ああ落付(おちつい)て平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するに行ける所まで行って見なかったから、見当が付かない。思い切ってもう少し行って見るとよかった。けれども恐ろしい。別(わか)れ際(ぎわ)にあなたは度胸のない方だといわれた時には、喫驚(びっくり)した。二十三年の弱点が一度に露見したような心持であった。親でもああ旨(うま)く言い中(あ)てるものではない。……

 三四郎はここまで来て、更に…

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