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父の大正天皇(右、当時皇太子)に手を引かれる幼少期の昭和天皇。隣は侍従に手を引かれる弟の秩父宮さま=1904年ころ、宮内省(当時)提供
大本営に出向いた昭和天皇。1938年1月1日付紙面に掲載するよう新聞各社に貸し下げられた写真=1937年、宮内省提供
東京大空襲後、焦土となった都内を視察。側近に、「関東大震災よりもはるかに無残で、一段と胸が痛む」と述べた=1945年3月、東京・深川の富岡八幡宮境内(現東京都江東区)、朝日新聞社所蔵
ヒドロゾアなど生物学研究がライフワークだった=1986年4月、皇居内の生物学御研究所、代表撮影
昭和天皇が隣にいるのに気づかず、姿を探す女性=1949年5月、福岡県、朝日新聞社写真部撮影
吹上御苑で、幼い浩宮さま(皇太子さま)と、オシドリなどにエサをまく昭和天皇。後列右から香淳皇后、皇后さま、常陸宮さま、天皇陛下=1962年12月、宮内庁提供
香淳皇后とともに欧州7カ国を親善訪問。英国でエリザベス女王主催の晩餐(ばんさん)会に出席した=1971年10月、代表撮影
園遊会では各界著名人との味わい深いやりとりが話題を呼んだ。これが最後の園遊会となった。後ろはいまの天皇陛下=1988年5月、東京・赤坂御苑、朝日新聞社写真部撮影
1936(昭和11)年2月26日、陸軍青年将校らが国家改造を唱え、首相官邸などを襲撃したクーデター。
1941(昭和16)年12月8日(現地時間7日)、米ハワイ州オアフ島真珠湾の米海軍基地を日本海軍が航空機で奇襲し、米英に宣戦布告した。
宮内庁は9日付で、昭和天皇の生涯を記録した「昭和天皇実録」の内容を公表した。側近の日誌などをもとに天皇の動静が克明に記され、新たな資料や回顧録の存在も明らかになった。[続きを読む]
24年5カ月という歳月をかけ、宮内庁書陵部の職員計112人が、国内外から集めた3152件の資料を駆使して書き上げた「昭和天皇実録」。一見淡々とした記述が続くが、注意深く読み込んでゆくと、昭和史の新たな断面が浮かびあがる。終戦前後の天皇の動静を検証する。[続きを読む]
昭和天皇は日記をつけていた。孤独からか、負った責務の重さと束縛のつらさからか死をも考えたが、妻への愛情と生物学研究が救いになったことや、自分が国や国民のためにどれほど役に立っているか慙愧(ざんき)にたえないと何度も精進を誓う記述もあったという。 2000年に香淳皇后が亡くなると身辺から見つかったが、「亡き天皇のお忘れ物」として皇后とともに陵に埋められたとされる。[続きを読む]
公表された昭和天皇実録について、宮内庁は9日から11月30日まで、皇居・東御苑内にある書陵部で特別閲覧を実施する。[続きを読む]
「皇室とっておき」は、天皇、皇后両陛下をはじめ、皇太子ご一家、秋篠宮ご一家ら皇族方の知られざる日常、意外な素顔を随時紹介します。
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