東日本大震災の犠牲者の遺体を運んで、連日650キロ近くを運転したボランティアがいた。霊柩(れいきゅう)車の業界団体からなる「全国霊柩自動車協会(全霊協)」の会員たちだ。遺体安置所から火葬場へ、そして遺骨を抱いて避難所へ戻る10日間だった。被災地から戻ってからも、知人にボランティア体験をすすめるなどつながりを持ち続けている。
震災発生から1週間後、秋田県大仙市の葬祭会社長の加藤正則さん(53)と同業者で同県能代市の藤田秋次さん(62)は、前線拠点の盛岡市に入った。全霊協が、災害時緊急輸送協定を結んでいる岩手県から出動要請を受けたためだ。食事やガソリン、寝る場所は何とか確保したが、肝心の骨箱が足りなかった。急きょ秋田に戻り、都合がついた数だけを持ち帰った。
出動初日は3月19日。山田町の遺体安置所だった。外見は普通のワンボックスカーと変わらないが、中には遺体を安置出来るようになっている「霊柩寝台車」で午前4時に盛岡を出発し、国道106号を東進し宮古市へ。そして国道45号へ入り山田町へ。
墓石の上に消防車が載っている。漁船が橋の欄干でくの字に曲がっている。テレビで見ていたが、「想像を超えていた」と加藤さん。「安置所に並ぶ無数の納体袋はマグロ市場みたいだった」と藤田さんは振り返る。
妻を亡くした男性は、自身も津波にのまれたが、泳いで助かったと話した。ばあさんはまだ見つかっていない。息子は水圧に飛ばされて、どこかの屋根まで飛んで助かった。津波から10日近くなるが、いまだに着の身着のままだ……。
通れる道を探しながら、青森県境の軽米町の火葬場へ。手続きをした町役場ではおにぎりを差し入れしてもらった。読経をしてもらい、火葬が終わったのは午後9時。加藤さんたちも一緒に泣き、遺骨を拾った。男性はつぶやいた。「火葬できるだけでも幸せだ」
山田町に戻ったのは翌20日の午前2時。途中、行方不明だった「ばあさん」の遺体が見つかったと連絡があった。また一緒に泣いた。この日の走行距離は734キロだった。
自分たちは人をおくるのが仕事だ。故人を通じ、人の思いをつないでいくのが葬儀だと加藤さんは思う。
幾度となく被災者からおにぎりをもらった。ありがとう、オレ、腹減ってたと受け取った。人間というのは、どんなときでも、誰かに何かをしてあげたい存在なんだ――と、しみじみ感じた。
秋田に戻ってからというもの、加藤さんも藤田さんも、会社の従業員や知人たちに被災地でのボランティア体験を勧めている。何らかの形であの場に行き、関わることは、これから生きていくために必要な経験だと思うからだ。
「息子(31)が、仲間たちとがれき拾いに行ったようだ」と藤田さんは笑う。詳しくは知らないが、思いはつながっていると思う。(鵜沼照都)