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2011年8月4日3時57分
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佳作 寺田高久さん 20年後の三陸海岸

写真:寺田高久さん寺田高久さん

■「2031年3月11日へのシナリオ」寺田高久(てらだ・たかひさ)さん=建築会社員(大阪府貝塚市)

 本稿の目的は、20年後の東日本の未来図を予想し、それをできるだけ具体的に描くことにある。

■1.20年後の未来図

 東日本大震災から2カ月が経過し、復旧から復興へ関心が移りつつある。政府も復興構想会議を立ち上げ、4月に初会合が開催。そこでは議長提出の五つの基本方針に沿って復興への指針が議論され、6月末には第1次提言の予定だ。

 1995年1月の阪神・淡路大震災。その復興戦略ビジョンは同年3月に取りまとめられた。フェニックス計画との命名に、その熱い期待を感じる。今般の復興計画も、おおむね同様の経過をたどろう。それは、超党派と復興税の部分が異なるとはいうものの、前述の五つの基本方針が、阪神大震災のビジョンと似通うからだ。

 しかし今回の大震災は、阪神大震災とは幾つかの点で異なる。まずその被害額の大きさ、都市から農漁村に及ぶ広さ、次に地震動から津波―原発事故―風評被害への連鎖、また政府が抱える財政赤字の大きさ、そして日本が人口減少の波に襲われている現状、国民の価値観の変化などだ。その違いを踏まえずに、阪神大震災から復興した成功体験をそのまま生かすことはできない。

 さらに阪神大震災で成し遂げたこと、できなかったことを総括する必要もある。密集市街地問題が注目されて施策が打たれたが、土地の区画整理事業には至らなかった地域もある。現実には住宅メーカーによる耐震・不燃住宅の供給で、都市の防災性が向上した。

 それらは計画論として、理詰めで調査・分析することが必要だ。しかし今は、そうして計画を急ぐより、むしろラフスケッチとして自由に未来図を描き、それをもとに具体的に正論、反論を論じる方がより創造的だ。また、新たな着眼点や発想も生まれやすい。本稿はそんな立ち位置で、未来図をシナリオとして描く。その意味で当シナリオは、一つの目標となる下絵であり、これをもとに日本全体のコンセンサスを醸成するツールだ。

 今般の大震災後、高度に発達したエネルギー、インフラ、交通、情報、産業などの機能システムが脆弱(ぜいじゃく)な一面を持っていたことを、我々は認めなければならない。だが悲観することはない。復興へのシナリオは幾つもある。確かにまちを放棄するシナリオもあり得る。また悲観論・楽観論などの複数の考えを比較評価するシナリオもあろう。しかし、ここでは「ニッポン前へ」との委員会名が示す通り、前向きのシナリオに絞って描くことにする。

 検討シナリオには地域に暮らすT氏、50歳に登場してもらい、氏の眼を通した復興のあり方を描く。その対象地域は東北地方、とりわけ犠牲者が多かった三陸海岸域だ。

 対象時期は2031年、すなわち20年後だ。その頃、日本の総人口は1億1400万人となり、今より1200万人減少する。また生産年齢人口(15〜64歳)は6700万人、総人口の58%で、現在より6%減る。当然、高齢者は増加。現在、1人のお年寄りを4人で支える人数が、3人になる。いわゆる人口オーナス現象だ。他方、インドに抜かれた国内総生産(GDP)は世界第4位になる。そんな近未来を描く。

■2.2031年へ向けたシナリオ

 大震災後、都会から急きょ、帰郷して三陸に住みついたT氏、それには訳があった。

 (1)しなやかな防災まちづくり

 2031年3月11日14時、大震災20年目の追悼式典が、海岸で始まろうとしていた。東北州政府を代表して州知事が出席。住民、ボランティアなどと共に、鎮魂の祈りを捧げる予定だ。

 「それにしても、良くここまで来たものだ……」

 T氏はつくづくそう思う。大震災は、まちを支える巨大な機能システムを徹底的に麻痺(まひ)させた。たとえば今までは、下水道システムで広大な市街地からの汚水を、網の目のような管路で大処理場に集め、一挙に浄化していたが、その処理場・管路とも被災した。電力供給システムも同様だ。大発電所で創電された膨大な電気は、巨大な送電網で需要家へ配電。だが地震と津波は、発電・送電システムに致命傷を与えた。情報通信システム、交通・物流システムも被災を免れなかった。だから大震災後、しなやかで強靱(きょうじん)な機能システムにすっかり変えられた。

 そのきっかけは2013年に成立した「津波対策市街地整備法」だ。

 阪神大震災後、2年で密集市街地整備法が施行され、密集市街地の解消が図られた。同じく東日本大震災後、津波対策市街地整備法が公布。津波に強いまちづくりへの制度設計がされた。同法の施行に伴い、次の三つの施策でまちの津波対策が行われた。それは「津波安全街区」の整備、「緊急津波速報」の実用化、「職住分離」の徹底だ。

 まず津波安全街区は、津波到達時刻前にすべての住民が、防災拠点に避難できるよう整備された街区だ。本震後、わずか10分で津波に襲われたまちもある。津波安全街区は、その10分以内に街区に暮らす全住民が、安全に避難路を通り抜け、定められた公共・公益施設などの防災拠点に無事到着できるよう計画された街区だ。防災拠点となる施設は、小学校、病院、公民館などの堅牢な中層建物だ。同安全街区は、おおむね小学校区と同じ範囲だ。もし津波到達時刻前に避難できないエリアが残る場合には、別の避難場所を用意したり、避難時間短縮のための近道を整備したりする。こんな津波安全街区の整備で、被災地の防災安全性は向上した。

 また緊急津波速報とは、現在ある緊急地震速報を、津波に援用したものだ。大震災当時も津波警報はあった。しかし津波の場所・時刻・高さの予報精度が荒く、イソップの狼(おおかみ)少年のようになり、住民の油断を助長。だからプレート境界域に津波観測網が重点整備された。これで感知がリアルタイムになり、基礎自治体単位の到達区域、cm単位の津波高さ、分単位の到達時刻など、きめ細かく予測可能になった。速報に対する信頼性の向上は、避難行動への住民の負担を著しく軽減。狼少年状態が解消した。

 最後の職住分離とは、まず堅牢な事業用建物を浜手に集積。それで津波から内陸部を守り、山手を安全な居住地として整備。このように既成市街地を、浜手と山手に分離して整備したことを指す。浜手の事業用建物は、建築基準法で新しく定められた耐津波基準で堅牢化。津波が起こす水平方向の水圧に対して、基礎と1階部分の構造耐力の強化が義務づけられた。同時に都市計画法に基づいた特別用途地区として、浜手一帯に津波対策地区が指定された。

 大震災直後、高所移転案、まち全体の地盤かさ上げ案、巨大堤防案など多様な震災復興計画案が提示。T氏のまちでは住民投票の結果、上記の3施策に決定した。その背景には、恵みの海、鎮魂の海との近接性を大切にしたいという住民感情がある。もちろん別の選択をした自治体もある。小さな集落であれば、高台への集団移転もできる。だが人口が多いと実現性に乏しい。一定の効果があった巨大堤防や、かさ上げで、津波に対して要塞(ようさい)化したまちも出来た。だがそれには莫大(ばくだい)な費用と時間がかかった。建築基準法で建築制限をかけた上で国有地化が図られたが、結局、浸水がおさまらずに放棄された集落もある。

 T氏も積極的にまちづくりへ住民参加した。だが恐ろしい津波への対処には迷った。

 「でもこれで良かった。結局、美しい緑と豊かな海が広がるまちが、一番、災害に強いまちだ。ボク達は、ここで生きるしかない」

 不幸にも減築を余儀なくされた三陸のまち。宅地が減り、容積率も低くなり、人口も減少した。しかしその分、豊かで安全な暮らしが実現できた。広域的で巨大な機能システムに過度に依存せず、その場で汚水処理して再利用し、その場で創電・蓄電し、その場で支え合う。ハードだけに依存しない、コンパクトでしなやかなまちが、新しく三陸海岸の各所に誕生した。

 (2) 新しい絆のある“ウエルネス・ムラ社会”

 三陸海岸域は、昔から住民同士の絆が深い地域だ。その絆の質が変化した。その背景には、T氏のように都市からUターンしてきた人々の存在がある。T氏は若い頃に離農したが、晩年に帰農。同じように離漁したが、大震災を機に帰漁した人も多い。大都市では老年人口が急増し、人口オーナスに苦悩。都市の住民全体がワーキングプアー化し、経済的に豊かな暮らしが望めなくなったからだ。2031年、都市が限界集落化の危機にある。

 農漁村のように地縁・血縁でつながる情緒重視型の共同体と、都市のように社縁で出来た利益分配型の共同体。それらがT氏のような人々の増加で融合。そこに新しい価値観でつながるコミュニティーが成立した。それは「ウエルネス・ムラ社会」と命名された。

 同ムラ社会には、従来の都市とも農漁村とも異なる新しい価値観がある。それは「ウエルネス」とも呼ぶべき絆だ。住民が自律的にひとづくり、まちづくり、ものづくり、ふれあいづくりを行う。人口ボーナスによって育まれていた都市のメリット。それが無くなりかけた時期に、大震災が発生。そこで、社縁を断ち切って帰郷したT氏たち。経済的な豊かさも大事だが、日常の何げない幸せの大切さに目覚めたのだ。

 一方、古い農漁村によくある共同体意識とも異なる。やはり自律する個人個人の意識は都会譲りだ。そんな複眼的な価値観に富む。エコやスローだけに矮小(わいしょう)化された価値観とも違う。あえて言えば、正義やケア、公共心、QOL(生活の充実)、あるいは善だ。それらを含めた価値観はウエルネスと呼ばれ、そんな農漁村が、ウエルネス・ムラ社会だ。

 東北州、特に州都仙台には、戦国時代から伊達者(だてもの)という伝統的なダンディズムがあった。2031年には、外見だけではない、中身のある新しいライフスタイル、ワークスタイルとしての伊達者が誕生した。T氏もそんな伊達者だ。仕事だけではなく、趣味や歴史・文化の素養にも優れ、知識欲が旺盛で、携帯端末、ICTも使いこなす。職業だけでなく、寄付やNPOを通じた社会貢献にも意欲的だ。ウエルネス・ムラ社会では、男女を問わずアクティブで新しい伊達者たちが活躍する。

 定刻の14時を回った。やはり州知事は遅れているようだ。EVの公用車がまだだ。会場は何百キロも続く三陸沿岸の松原だ。20年前のあの日、松原には、松が1本だけ残った。その一本松は不屈の松として、復興と鎮魂の象徴となった。その後、松原復興運動が起こり、名勝に育て上げられた。T氏は、強く信じている。

 「使命感や自己犠牲とは違う別の連帯社会が東北に生まれ、この松原が再生されたのなら、少なくともその部分では、この大震災を無駄とは言わせないっ!」

 曇りで寒い日になった。夜半には雪との予報だ。それは大震災当日と同じだ。T氏の脳裏に、あの日の想(おも)い出が、ゆっくりとよみがえって来た。

 (3) 海の恵みと共生した地域振興

 船団を組んで世界の海を駆け巡り高級魚を世界中から空輸する、そんな飽食の時代は終わりつつあった。2031年は、むしろフードマイレージ・ゼロの方が重視される。消費量も減少した。それに応じて三陸海岸沿いの各漁港も、「中枢拠点漁港」と、それ以外の「地方漁港」とに二分された。

 まず中枢拠点漁港には、漁業環境が重点整備された。石巻、気仙沼、女川、八戸などでは漁業者が集まって大型法人化。またカツオ、サンマ、カキ、ホヤ、フカヒレなどの魚市場はもちろん、加工場、冷凍倉庫、物流施設、漁船の整備工場なども集積。漁業に関連したミニ産業クラスター(集積地)が形成された。さらに高鮮度志向、ブランド化に対するICチップなど漁業のハイテク化が目指された。農業・漁業は、もはや1次産業ではなく3次産業だ。それらは、都市から大量に逆流してきた労働力の受け皿になった。

 次に、それ以外の地方漁港も、新たな役割を担った。三陸付近には海藻の良好な生育環境があり、ワカメなどの海産物が有名だった。その環境を活用して、光合成で二酸化炭素からエタノールを生成する藻のプラントを整備し、クリーンエネルギーを得ることに成功したのだ。これで中枢拠点漁港にある漁船のディーゼルオイルをまかない、バイオガス発電で電力を供給し、EVを走らせ、二酸化炭素の排出と削減が釣り合うカーボンニュートラルな地域社会が実現した。

 「この二つで、農漁村はすっかり近代化したなあ」

 T氏がそうつぶやくと同時に州知事が到着。大震災当時、若かった県知事や市長など、一緒に激論を交わした懐かしい顔ぶれも揃(そろ)った。20年ぶりだ。今でも数千人が行方不明のままだ。震災時に3歳だったT氏の息子もすでに成人し、地元のバイオガス企業に働く。震災当時、幼子だった息子と一緒に避難所へ駆け込み、大切な人を探し続けた。その後、仮設住宅に2人で暮らした体験は決して忘れない。何度も心が折れそうになりながら折れなかったのは、忘れ形見の息子の存在だ。その息子が、一人前に適齢期を迎えつつある。

 州知事の追悼の辞が、心に響く。

 「3月11日は心に刻まれた日です、私たちは震災と津波に倒れたすべての人を哀(かな)しみのうちに想いうかべています……東北の人々はみずからの故郷を愛しています、大震災を乗り越え、生き抜くことができたのは決して希望を捨てなかったからです……20年目の節目にあたり、この不幸を克服して復興にあらためて努めようではありませんか……」

 (4) エネルギーをホドホドに使う「避」電化ライフスタイル

 大震災当時、停電で風呂も沸かず、ガスストーブも使えず、電話も通じなかった。生活が電気にすっかり依存していたことを思い知らされた。やはり過度な依存は、なるべく避けるべきだ。本来、非電化ライフスタイルを目指すべきだ。しかし全く依存しないのも非現実的だ。日本は電気なしには暮らせない、ひ弱な文明国になった。

 だからせめて電気エネルギーをホドホドに使う、「避」電化ライフスタイルを目指そう。

 人口が密集した都市へは、大発電所による電気の安定的な大量供給が続いた。GDPはインドに抜かれたが、国際競争には潤沢なエネルギーが不可欠だからだ。今さらホタルや月明かりでは暮らせないし、団扇(うちわ)や打ち水で、ヒートアイランド現象はしのげない。だが、人口の散漫な地域では太陽光発電、風力発電など再生可能な電源による小規模分散型の電気供給も可能だ。前述した、藻を利用したバイオガス発電もその一つだ。

 それにLED照明や高断熱材、高効率空調機器、ダブル・スキン、ヒートポンプ、エネルギー・マネジメントシステムなどの技術革新が追い風になる。常温超伝導による送電線も実用化され、送電ロスが激減。また電源周波数が全国統一され、やっとスマートグリッドとなった。見える化も効果的だった。避電化ライフスタイルは、こうして実現した。

 辺りはすっかり暗くなった。海岸沿いの名勝、松原では犠牲者と同数のろうそくがともされた。ほのかに光り輝く明かりの中で、T氏の脳裏には目の前で犠牲になった同僚や亡妻の姿が浮かんでいた。予報通り、夜半には雪がちらつき始めた。

 周りは、あの日とすべて同じになった。

■3.もう一つの豊かさへ……

 筆者は今般の大震災を見ると、どうしても阪神大震災の記憶と重なってしまう。多くの親族が被災し、間もなく帰らぬ人となった者もいる。同じ気持ちは二度と味わいたくない。T氏とは筆者の分身であり、またT氏は東北人の象徴でもある。

 だが、幸いにも阪神大震災の後、新しい息吹も芽生えた。司馬遼太郎は「神戸に自立した市民を感じた」との名言を残した。その言葉通りNPOやボランティアなどの互助組織が自然発生し、ボランティア元年となった。独立した個人が多い都市社会で生まれた互助・共助の動きは、その後、大きなうねりとなって日本社会に根付いた。それに伴って様々な共済制度の拡充がされ、行政には危機管理監が置かれ、地震観測網が充実し、民間企業では事業継続計画が策定された。

 こんな動きが今後生まれ、日本が東日本大震災を契機に新しい段階に至ることを期待したい。そして経済的な豊かさだけではない、もう一つの豊かさへ踏み出してゆけることを願う。

 「雨ニモマケズ、風ニモマケズ……一日ニ玄米四合ト、味噌(みそ)ト少シノ野菜ヲタベ……ホメラレモセズ、クニモサレズ……」

 宮沢賢治が説く、このような強靱さ、粘り強さが東北人のDNAに残っていれば、岩手はもちろん、宮城も、福島も、その他の県も、理想郷イーハトーブにきっとなれる。そのことを最後に祈りたい。

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