2011年5月28日12時31分
東京・赤坂の旧グランドプリンスホテル赤坂が震災被災者の一時避難施設となって約2カ月。バブル景気の象徴ともいわれた「赤プリ」に暮らす約800人にとって、首都の光景はほろ苦い。
日暮れ時、9階の部屋から見える夜景に、黒沢英男さん(68)は悔しさがこみ上げる。「原発が照らしてきた、都会のネオンだ」
東京電力福島第一原発から10キロ圏内の福島県富岡町で、町議会の副議長を務めている。親族を頼って都内に避難した後、同県郡山市内でアパートが見つかるまでと、赤プリに移った。
町役場や議会は郡山市に避難。赤プリから郡山に出向き、議会に出たり、避難所で過ごす町民を訪ねたりしている。
ホテルで顔を合わせる町民には「もう戻れねぇだろうなぁ」と声をかけられる。「先頭切って戻って、がんばりますから」と答えるが、どうすれば町が復興できるのか、答えはない。
放射能汚染が不安で同県いわき市から自主避難した加藤典子さん(34)は、23階で1歳、5歳、7歳の娘と避難生活を送る。
夜明け前に起きだして地下のコインランドリーへ。部屋に戻って洗濯物を干した後、共用パソコンが混まないうちに、避難を続けるための申請書類作りにとりかかる。
一緒に避難した夫は仕事のためいわきに戻った。「自主避難は肩身が狭い。いわきの人たちに対しても、自分たちだけ逃げて申し訳ないって思う」
いわき市の笹木ゆかりさん(39)は夫と小学2年、3年の娘らと避難して上京した。ボストンバッグ一つでビジネスホテルを転々とした後、赤プリに来た。
外へ出ると、スーツ姿やヒールを履いて道を急ぐ人ばかりだ。都心の真ん中で福島から来た自分たちは浮いているだろうな、と感じる。居場所がどこにもないように感じて、部屋を出るのがおっくうになった。
貯金を取り崩す生活の中、夫は飲食店でアルバイトを始めた。娘2人は近くの小学校へ通い始めて落ち着きを取り戻しつつある。だが、使用期限は6月末。夏休み前にまた転校させなくてはいけない。
その後の住まいは見つからない。一日が終わり、夜が来るたびに焦りが募る。瞬く明かりに子どもたちは「お母さん、東京タワー!」とはしゃぐ。普通ならきれいに見えるんだろうな、とぼんやり思う。けれど今の自分は、光の先に広がる闇を見つめてしまう。(川村直子)
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「グランドプリンスホテル赤坂」は3月末に閉館。6月30日までの期限で、4月9日から避難者を受け入れた。東京都と同ホテルの共同事業。都によると5月27日現在、約800人(福島県いわき市400人、南相馬市180人、双葉郡140人など)が避難している。登録者には写真入りのIDカードが渡され、肉親でも無許可の人は入れない。
光熱費は都が負担。食事も無償で提供されるが、カレーやハンバーグのレトルト品が中心だ。洗濯は共用のコイン式洗濯機でする。館内には掃除機、パソコンが置かれており、ボランティアセンターや社会福祉協議会、弁護士会の相談窓口もある。2階には子ども向けの学習室。15階のキッズルームでは、午前、午後に2時間ずつ子どもたちを受け入れている。