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通学30秒でも消えぬ不安 校内避難中の気仙沼高28人

2011年5月21日3時0分

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写真:学校の柔道場で避難生活を送る気仙沼高校の生徒たち拡大学校の柔道場で避難生活を送る気仙沼高校の生徒たち

写真:学校の柔道場で避難生活を送る気仙沼高校の生徒たち拡大学校の柔道場で避難生活を送る気仙沼高校の生徒たち

 宮城県気仙沼市の気仙沼高校に、同校の生徒28人が暮らす避難所がある。家を失った生徒、鉄道が不通で通えない生徒――。家族と離れ、避難所で助け合って共同生活を送っている。一見すると合宿のようだが、終わりの見えない長期戦に将来への不安も見え隠れする。

 午前8時20分の柔道場。自衛隊が届けてくれた朝食を終えたジャージー姿の生徒たちが、約400畳の畳の上で布団をたたみ、ブレザーやセーラー服に着替えていた。今朝のメニューはワカメの酢の物とご飯、シメジのみそ汁。始業時刻まで10分。「俺、25分までに歯を磨いてくる」と男子生徒が飛び出していく。

 「通学時間は30秒。津波の前は1時間以上っす」。3年生の山内秀斗君(17)は、約30キロ南の同県南三陸町から通っていた。自宅を津波で流され、母と祖父母、妹2人は内陸の鳴子温泉に避難している。進学を希望していたが、「自分が養っていかなくちゃいけないかな」。まずは勉強に集中しようと学校に身を寄せたが、不安は消えない。

 高台にある同校は、震災直後に避難者約900人が集まり、体育館と剣道場、柔道場を避難所として開放した。仮設住宅の建設などで、5月半ばに約150人に減った。一方、9日の授業再開を前に、鉄道の不通で通えない生徒が避難所に来るケースが増えた。一般の避難者とは生活のリズムが違うため、柔道場を生徒専用にした。

 柔道場の鍵は生徒のリーダーが管理し、授業の間は施錠する。柔道場とトイレの掃除、食事当番は全員で分担する。校舎内にあった間仕切りを持ち込み、男女のスペースを分けた。

 午後7時を過ぎると、部活動を終えた生徒たちが戻ってくる。大型テレビの周りに集まり、プロ野球楽天のナイター中継に食い入る。

 「何で高めに投げるんだよー」。楽天のピンチに、軟式野球部で捕手の3年生、阿部恭平君(17)=南三陸町=が叫んだ。7月に最後の大会が始まる。いま練習しているグラウンドには、市内の高校の仮設校舎が建つ。「ダイヤモンドは残してもらえることになった。まだ恵まれてるんだな」

 3年生の最知(さいち)明花(はるか)さん(17)=同=は、コンビニエンスストアに寄ってきた。シュークリームとプリンをほおばる。自衛隊が炊き出してくれる朝晩の食事に不満はない。だが、昼は配給のおにぎり三つとカップ麺が中心だ。被災していないクラスメートの弁当を見ると「いいなって思うんですよ」。

 仲良しの浅野ことみさん(18)=同=は「あたし、孫の孫まで津波のこと語り継ぐ。それで『ばあちゃん、また津波かよ』って煙たがられるんだよね」と笑った。

 生徒たちの枕元には、マンガ本や携帯ゲーム機、懐中電灯。棚には参考書や辞書が並ぶ。午後10時の消灯を前に、2年生の及川悠君(16)=同=が英語のドリルを開いていた。養殖業の父、海沿いの民宿に勤める母はともに職を失った。家は無事だが、通学にはバス代がかかる。将来の夢は通訳。「受験のことを考えると時間がほしい。親にも負担はかけられない」

 教師2人がボランティアで当直に就く。遠山陽一教諭(52)は、間仕切りを増やして個人のスペースを作ってあげたいと思っている。「このままでは落ち着いて勉強もできず、疲れてしまう。今は明るく見えるかもしれない。でも、その姿が胸の内を映しているわけではないでしょう」(工藤隆治)

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