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被災地、球音再び 岩手の高校野球、震災後初の公式戦

2011年5月12日22時36分

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写真:試合前のシートノックでグラウンドに飛び出す高田高校の選手たち=12日午前11時23分、岩手県住田町、伊藤恵里奈撮影拡大試合前のシートノックでグラウンドに飛び出す高田高校の選手たち=12日午前11時23分、岩手県住田町、伊藤恵里奈撮影

 東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県沿岸部の高校球児たちが12日、震災後初の公式戦を迎えた。再起をかけて、がれきの町から第一歩を踏み出した。

 震災の影響で宮城、福島両県は春の県大会を中止したが、岩手県は開催を決定。この日から沿岸南地区の予選が始まり、7校が本大会出場の3枠を争う。初日は1回戦の釜石商工―住田、高田―釜石、大船渡東―大槌の3試合。13日には大船渡が出場する。

 初戦、住田町運動公園野球場は青空が広がった。第1試合の開始前、震災の犠牲者を悼みグラウンドの選手らが黙祷(もくとう)し、第2試合の高田―釜石戦は午前11時40分過ぎにプレーボール。保護者やOBら約300人が見守るなか、両校の選手が「おっしゃーっ」と雄たけびをあげ、ベンチから勢いよく飛び出した。

 「できて当たり前だった野球に、以前より喜びを感じる。勝って高田を活気づけたい」と、高田の大和田将人主将(3年)。釜石の鈴木祐平主将(3年)も「僕たちも釜石の復興を背負っている」と闘志を見せた。

 3月11日午後、高田野球部は、陸前高田市にある学校裏の小高い丘にあるグラウンドで打撃練習中だった。強い揺れ。見下ろす校舎の青い屋根の向こうに黒い海が迫り、見る間に3階建ての校舎が丸ごとのみこまれた。

 学校全体で生徒18人が犠牲になり、今も生徒4人、教職員1人の行方がわからない。津波で破壊された校舎は使えず、生徒は隣の大船渡市の高校の校舎を借りて授業を受ける。かろうじて無事だったグラウンドには仮設住宅が建った。

 野球部は3年生1人が両親を亡くして県外に転校。残る40人の部員は練習場所を求め転々とした。大型連休中は内陸の盛岡市などで合宿。行く先々で宿や食事などの恩を受けた。自宅が流された外野手の菅野駿君(3年)は「支えてくれる方に感謝してプレーする」。先輩から譲り受けたユニホームで球場に入った。

 がれきに埋もれた学校に、作詞家の故・阿久悠さんの詩碑が残った。1988年、高田は第70回全国選手権大会で甲子園初出場。1回戦は土砂降りの雨の中で戦い、8回降雨コールドで敗れた。阿久さんはスポーツ紙に寄稿し、再起を促すメッセージを託した。

 「高田高の諸君 きみたちは 甲子園に一イニングの貸しがある そして 青空と太陽の貸しもある」

 その詩句を胸に、23年後の後輩たちが戦う。(山下弘展)

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