2011年4月25日8時21分
東日本大震災の津波は、丹精込めて耕してきた水田を一気にのみ込んだ。海水につかった田んぼが塩害で使えなくなっただけでなく、浸水を免れたのに、下流のがれき除去作業などへの影響を考慮して水を張れない田んぼも。「どうやって生きていけというのか」。農家は途方に暮れる。
海岸から2キロほど離れた宮城県亘理(わたり)町吉田の田んぼには、今も茶色い海水がよどむ。乗用車、瓦ぶきの屋根、海べりから流されてきた松の木などが散らばる。
「おれの田んぼに津波が来るのをあそこから見てるしかなかったんだ」。50メートルほど離れた町役場支所の屋上を指さしながら、専業農家の斎藤正一さん(65)はため息をつく。
町内に点々と計2.9ヘクタールの田んぼを持つ。イチゴが収入の主役になったが、先祖から代々受け継いだ米から離れられなかった。
「津波が来る。早く逃げれ」。あの日、海から500メートルほどしか離れていない集落で、区長の斎藤さんは住民に声をかけて回った。
地震から40分ほど後、支所で妻(65)とも落ち合えた。そこに津波がきた。2日後に助け出されたが、夫妻は高校の体育館で避難生活を強いられている。
自宅は津波で全壊。倉庫は跡形なく消え、トラクターやトラック、コンバイン、そして、種もみも流された。自分の田んぼは9割以上が海水につかった。完全に塩抜きをするには4〜5年かかると考えている。
「そのころは70歳だあ。まだ百姓をやる気力が残っているかな。10歳若かったら絶対に米を作ってみせるんだけどなあ」
自分が主役の米作りは今年まで。来年からは長男(39)にすべてを託そうと思っていた。その長男は仙台で仕事を探している。
「息子にまた米を作れとは強制できないわな。おれの代で終わりだべか」
津波の直接の被害を免れた内陸部にも、田植え準備の「自粛」を余儀なくされている地域が広がる。
「ここは海水も入ってない。それなのに米を作っちゃだめだってよ」。同県名取市下余田の小関幸一さん(75)がうめいた。
太平洋から5キロほど離れた2.5ヘクタールの田んぼは「無傷」だ。しかし3月末、名取市と南隣の同県岩沼市の農業団体や行政でつくる水田農業推進協議会から、作付けを控えるよう通知を受けた。
津波で両市の沿岸部にある五つの排水機場が破壊された。低地の水をポンプでかき出すことができず、内陸で作付けをすれば、排水路を伝って沿岸部に水が流れ、遺体捜索やがれき撤去を妨げる――。小関さんを含む農家250戸ほどに協議会は説明した。
麦や大豆などへの転作を勧められたが、小関さんは「口では簡単だ」と苦笑する。「大豆を作るにしても機具をそろえるのに金がかかる。麦は収穫時期がずれるから、簡単に稲作へ戻せなくなる」
米が作れなくなった田んぼ。時折、側溝にたまった泥をかき出しに足を向ける。「手入れしとかないと使えなくなるから」。来年こそ米を、という意気込みを消さないように。
いま気がかりなのは、自粛したら国が補償してくれるかどうかだ。塩害の田んぼだけが対象になれば、同じ「被害者」であるはずの自分は枠から外される。
「残った人だって、生きていかなきゃいかんのにな。これじゃあ農家はみんなつぶれていく」(鈴木剛志、小林豪)