現在位置:
  1. asahi.com
  2. ニュース
  3. 特集
  4. 東日本大震災
  5. 記事

避難先はご近所「共に悲しんでくれる」18軒に371人

2011年4月18日15時0分

印刷印刷用画面を開く

Check

このエントリーをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録 このエントリをdel.icio.usに登録 このエントリをlivedoorクリップに登録 このエントリをBuzzurlに登録

写真:各班の世帯主の氏名が貼られたコンビニ店の「災害対策本部」。毎朝、班長会議が開かれる=16日、宮城県石巻市小渕浜、久木写す拡大各班の世帯主の氏名が貼られたコンビニ店の「災害対策本部」。毎朝、班長会議が開かれる=16日、宮城県石巻市小渕浜、久木写す

地図:牡鹿半島・石巻市小渕浜地区拡大牡鹿半島・石巻市小渕浜地区

 宮城県の牡鹿半島にある石巻市小渕浜(こぶちはま)地区は、学校もスーパーもない約150戸の漁師町だ。唯一の公民館は津波で流され、辛うじて残った18の個人宅が、家や家族を失った300人以上の住民を受け入れる。「一緒に悲しんでくれる。ありがてぇ」。町には独自の「自治組織」が生まれ、絆は震災を機に深まった。

 「それぞれの班で人数の増減はありますか」

 午前9時、閉鎖したコンビニ店に置かれた「小渕災害対策本部」。区長の石森政彦さん(69)が声をかけると、住宅ごとの各班長が状況を報告した。16日の人口は計371人。

 被災証明書の発行手続きなど、市からの連絡事項を石森さんが伝える。定例の会議が終わると、回り持ちの担当班が救援物資の仕分けに取りかかり、町の一日が始まった。

 小渕浜地区は牡鹿半島の中ほどにあり、石巻市の市街地から南東へ約20キロ離れる。狭い入り江に面して約570人が暮らしていたが、津波が集落を駆け上がり、約150戸のうち8割が全壊した。死者・行方不明者は16人にのぼる。

 海辺の公民館は真っ先に流された。避難所に使えそうな場所はほかにない。住民たちが集まったのが高台の個人宅だった。石森さんの提案で、被災者を受け入れた住宅がそれぞれ「班」になった。当初は20班。海を仕事場にしてきた住民が大半で、大きな被害に比べて集落を離れる人は少ない。今も18班態勢で共同生活を送る。

 「2班」の木村光雄さん(76)宅には、車庫や納屋に6世帯22人が身を寄せ合う。震災時、木村さんは石巻の市街地にいた。4日後に戻ると、自宅が避難所になっていた。

 ノリ養殖業の布川章義さん(66)は、妻の悦子さん(60)がまだ行方不明だ。立ちすくんでいた時、近くにいた人から「ここに入ってろ」と言われたのが、特別に親しい関係でもなかった木村さん宅だった。

 「誰がということはまったくない。同じ集落に住んでいれば思いは同じ。家も奥さんも流されたんだから救ってやんないと」と木村さんは言う。

 2班は毎朝、山の水をくみに行く。ドラム缶に入れた廃材を燃やしてお湯を沸かし、ひしゃくですくって髪を洗う。ご飯は朝夜2食で、近くの食堂跡で作ってみなで一緒に食べる。

 班員たちは、布川さんに水くみも廃材拾いもやらせない。「奥さんのこと考えてぼーっとして、けがしたら危ないから」という気遣いだ。布川さんは頭を下げた。「大きな避難所と違い、ここはだいたい知ってる人。一緒に悲しんでくれる。それだけでどんだけ助かるか」

 自動車整備会社「牡鹿モータース」を営む大沢俊雄さん(60)宅は「13班」だ。オイルの臭いが漂う工場を中心に55人が暮らす。

 大沢さん夫妻は「皆と同じ生活をする」と、自宅ではなく工場に寝泊まりしてきた。震災から1カ月以上が経ち、集落には電気も通うようになった。「もう班は解散するから工場を再開してください」。住民たちは何度もそう訴える。

 だが、大沢さんはそのたびに伝える。「1家族でも行き先がなければ、最後まで面倒を見ます」(久木良太)

検索フォーム

朝日新聞購読のご案内
新聞購読のご案内事業・サービス紹介

東日本大震災アーカイブ

グーグルアースで見る被災者の証言

個人としての思いと、かつてない規模の震災被害、その両方を同時に伝えます(無料でご覧いただけます)

プロメテウスの罠

明かされなかった福島原発事故の真実

福島第一原発の破綻を背景に、政府、官僚、東京電力、そして住民それぞれに迫った、記者たちの真実のリポート

検索

亡くなられた方々

| 記事一覧