2011年4月14日23時1分
田老駅近くを走る三陸鉄道の「復興支援列車」=岩手県宮古市、宮嶋写す
橋脚が崩れ、駅舎が跡形もなく流された三陸鉄道北リアス線の島越駅=9日、岩手県田野畑村、牛尾写す
三陸鉄道田老駅のホーム。列車から降りた乗客たちは、がれきだらけの町を前に、立ちつくしていた=岩手県宮古市、宮嶋写す
宮古高校2年の山崎祥太郎さん(右端)と中里義貴さん(右から2人目)。田老へ流された自宅を見に行ったが、この日も何も見つからなかったという=岩手県宮古市、宮嶋写す
岩手県の三陸海岸を南北に走る「三陸鉄道」は、津波で駅舎も線路も奪われた。それでも、いち早く一部で運行を再開したのは、津波からの復興のために生まれた鉄道だからだ。だが、自力再建は厳しい状況に追い込まれている。
今月初め。宮古発小本行きの1両だけの列車に、野菜や長靴を詰めた袋や大きなリュックを背負った乗客約30人が乗り込んできた。
運転士の飯田晃司さん(46)は駅員が示す緑色の手旗信号を確認した。
「出発、青進行」
安全を確認しながら時速25キロでゆっくり進む。宮古を出発して約40分。トンネルを抜けて広がるのは、海岸べりのがれきの荒野だ。
岩手県宮古市田老地区。高さ約10メートルの防潮堤を津波が乗り越え、町がすべて流された。高台を走る線路のすぐ下までがれきが積み重なる。乗客は、黙って窓の外を見つめた。
飯田さんも震災当日、宮古市内で津波に巻き込まれた。自宅が流され、家族と避難所で暮らしながら、3月20日に職場復帰した。
「田老を見たら涙が出た。今も目を背けたくなるけど、三鉄(さんてつ)が動かないと人も町も動き出せない」
震災後の停電が続く中、宮古駅に停車中だったディーゼル車内にホワイトボードを運び、「災害対策本部」にした。望月正彦社長(59)らは車内に3日間泊まり込み、社員の安全確認と被害状況の情報収集をした。
約100人の社員は無事だった。山の近くを走る北リアス線の一部なら、がれきが撤去できれば復旧できると判断し、震災5日後の16日に区間運転を再開した。電気ケーブルが切れて信号や踏切が動かない。社員総出で信号用の手旗を持ったり、踏切で安全確認をしたり。復興支援で3月中は運賃を無料にした。
復旧を急ぐには理由がある。かつての津波が、三鉄を生んだからだ。
1896年の明治三陸大津波。田老地区を始め沿岸部は大きな被害を受けた。物資や人を運ぶ鉄道が復興には欠かせない。そう痛感した住民が政府に建設案を提出した。部分開通を重ねてようやく全線開通を目前にした1980年、国鉄の不採算路線を廃止する方針が決まった。
廃線の危機に、県や沿岸自治体が協力して第三セクター「三陸鉄道」を81年に創設。住民も、敷石に自らの名前を書き込む「一石署名運動」で支えた。
84年4月、北リアス線(久慈―宮古)と南リアス線(釜石―盛)の全線がようやく開業。県職員として式典に立ち会った望月社長は、駅が人で埋まり、沿線の町々でパレードが繰り広げられたのを覚えている。
「みんなほしくてほしくてたまらなかった鉄道だ」
今、三陸鉄道は被災者の暮らしを支える貴重な足だ。避難所から津波で流された自宅跡へ思い出の品を探しに、食料品や生活用品の買い出しに、薬をもらいに病院へ……。毎日、様々な思いを胸に、多くの人が乗ってくる。4月11日からは最高時速をあげ、運行本数も増やした。だが、被害が大きく全線復旧のめどは立たない。
飯田さんは「なんとしても全線復旧させたい」と話す。雨や雪で遅れても、乗客は静かに乗ってきて、降りる時には「ありがとうございました」と声を掛けてくれる。「気が遠くなるほどの時間がかかるかもしれないが、一緒に復興していきたい」(牛尾梓、宮嶋加菜子)