2011年4月12日0時42分
長谷川憲司・六甲味噌製造所社長
■長谷川憲司さん(60) 六甲味噌製造所社長
会社は1918(大正7)年の創業で、私で3代目。これまで水害や太平洋戦争などで何度も工場を失った。16年前の阪神大震災の時も、兵庫県芦屋市内の製造工場が被災した。
みそを入れたたるが幾つも倒れ、醸造用タンクも傾いた。工場の周りも多くの建物が倒壊し、火災も起きた。「商品を作っても売れないだろうから」と、このまま閉めてしまおうかと思うこともあった。
呆然(ぼうぜん)としていると、近くに住む社員が次々と駆けつけ、片づけを始めてくれた。家族や社員を食べさせないといけない、悲観しても仕方ない、と考え始めた。
少し離れた大阪に行ってみた。すると、街はいつもと変わっていなかった。「商売を続けるチャンスはある」と思い直した。だから、被災地でない所では何でもかんでも自粛しない方がいい。被災者は普段通りの街の様子を見て、勇気づけられることもある。
震災後はしばらく、原材料を仕入れられず、同業者から製造途中の品をもらって作ることもあった。「好きなだけ持っていっていい」と言ってくれた業者もいて、本当にありがたかった。
■許せなかった風評被害
そんな中での風評被害は許せなかった。天災だから、工場がつぶれても諦めがつく。しかし、「みそに水が入っている」とか「ちゃんとしたみそじゃない」といううわさが立った。
工場が本格的に稼働するまでに1年、工場の屋根や外壁の修理も入れると5年かかった。8千万円借金して、持っている資金も次々とつぎ込んだ。毎年1200万円の返済で経営はむちゃくちゃ苦しかった。
震災から3年くらいは救援復興の特需もあったが、一段落すると、売り上げが2割ほど落ちた。大豆や米など原材料にこだわった付加価値の高い商品の開発に力を入れて方針転換した。
今では、震災前とほぼ変わらない11人の従業員で年に2億円近くを売り上げている。
私たちが一生懸命、立て直そうとしていた姿を見てくれる人たちがいた。全てを無くしたとしても、更地に絵を描く楽しさもある。地道に前に進んでいけば、周りから手助けもしてもらえるときもある。40年近く仕事をしてきて、そんな風に思えるようになった。(聞き手・五十嵐聖士郎)