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原発に追われる 信じていたのに 東日本大震災1カ月

2011年4月11日5時1分

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写真:夫修平さんと孫の瑛士ちゃんが行方不明になった松本寿子さんが自宅から持ち出せたのは、運転免許証や携帯電話、青いハンカチが入った小さな巾着袋だけだった=9日、仙波理撮影拡大夫修平さんと孫の瑛士ちゃんが行方不明になった松本寿子さんが自宅から持ち出せたのは、運転免許証や携帯電話、青いハンカチが入った小さな巾着袋だけだった=9日、仙波理撮影

図:松本さん一家の避難先拡大松本さん一家の避難先

■流された夫と孫

 長く続く海岸線のわきに福島第一原発がそびえる。陸に広がる水田とナシ畑。松本寿子(としこ)さん(65)は、夫の修平さん(68)と長男夫婦、2人の孫と一緒に、そんな福島県大熊町でずっと暮らしてきた。

 3月11日も、いつもと変わらなかった。海まで歩いて10分の高台にある自宅で、夕方から勤めに出る修平さんの弁当づくりを始めた。ハンバーグに入れるタマネギを炒め終わったとき。ドドドッ。午後2時46分。激しい地震の揺れに襲われた。

 庭に飛び出し、長男の妻と孫の瑛士(えいじ)ちゃん(4)、修平さんと顔を見合わせた。「大きかったね」。長男の妻は、もう1人の孫を小学校まで車で迎えに行くことになった。瑛士ちゃんは修平さんが抱きかかえた。首もとにぴたりと顔をくっつけ、離れなかった。

 遠くの防災無線が隣地区の住民にすぐに避難するよう呼びかけていた。「逃げたほうがいい?」。修平さんは「ここは高台だから大丈夫だ」と答えた。

 弁当を気にかけた寿子さんだけが家の中に戻った午後3時半ごろ。今度は、バリバリバリと轟音(ごうおん)が響いた。津波だった。

 2階に駆け上がった。濁流が畑ではねるのが窓から見えた。1階の壁はなくなり、廊下は杉の木や折れた電柱で埋まった。

 「修平さーん、瑛ちゃーん」。庭にいたはずの2人を呼んでも返事がない。倒れた靴箱から何とか取り出した靴を履く。左右で大きさが違う黒と白の靴は泥にはまり、2人を捜したくても、歩けなかった。

■息子は福島第一に

 30代の長男はその時、自宅から約2キロ北にある第一原発の中で仕事をしていた。みんな無事でいて――。携帯電話で自宅に連絡を取り続けたが、ツーツーと鳴るだけだった。敷地内の丘の芝生に藻がくっついていた。「この高さまで津波が来たのか」。自宅はなくなったと覚悟した。

 原発を冷やすための電源は失われていた。総力を挙げた復旧作業が始まる。自宅周辺に戻って安否を確かめる選択肢はなかった。

 寿子さんは夜、町立大熊中学校の体育館に入った。翌12日早朝、町職員の「これからバスと車で移動します」という呼びかけで、原発から遠ざかる。二つの避難所で「もういっぱいです」と拒まれ、ようやく40キロ離れた田村市総合体育館にたどり着いた数時間後の午後3時36分。第一原発1号機の水素爆発が起きた。

 東京電力の協力会社に勤め、8年間、放射線管理の事務をした。修平さんも定年まで別の協力会社で働いた。安全だと信じ切っていた原発が、地震と津波に襲われた家族、そして地元の人を追い立てている。

 現実とは思えなかった。

■いつ戻れるのか

 寿子さんが長男の妻と小学生の孫の無事を確認できたのは14日のことだった。第一原発から離れず電源の復旧に当たっていた長男が、修平さんと瑛士ちゃんの行方不明を知ったのもこの日だった。4人が合流したのは18日。翌日、約200キロ離れた千葉県内の親族宅に避難した。

 2人を捜しに行くこともかなわず、ふるさとに帰れるかもわからない毎日。千葉から第一原発に通う長男は2人のことを口に出さない。「町の多くの人が家族を捜しに行けず、避難している。ぼくの仕事はとにかく事態を収束させること」とだけ言う。(小寺陽一郎、下地毅)

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