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これほどの無明を、見たことはなかった(1)

[掲載]AERA 2011年4月11日

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写真:津波は街も人々のくらしも一瞬にして流し去った/3月18日、岩手県大槌町(photo 朝日新聞社・安冨良弘)拡大津波は街も人々のくらしも一瞬にして流し去った/3月18日、岩手県大槌町(photo 朝日新聞社・安冨良弘)

写真:応援医師に状況を説明する白石吉彦医師(左)/3月20日朝、岩手県藤沢町(photo 外岡秀俊)拡大応援医師に状況を説明する白石吉彦医師(左)/3月20日朝、岩手県藤沢町(photo 外岡秀俊)

写真:水に流された車は、凶器となって家にめり込む/3月22日、岩手県大船渡市(photo 外岡秀俊)
拡大水に流された車は、凶器となって家にめり込む/3月22日、岩手県大船渡市(photo 外岡秀俊)

写真:船が道に立ちはだかる/3月24日、宮城県石巻市(photo 外岡秀俊)拡大船が道に立ちはだかる/3月24日、宮城県石巻市(photo 外岡秀俊)

写真:東日本大震災と阪神大震災の比較拡大東日本大震災と阪神大震災の比較

 空と陸から見た被害は、阪神大震災とは桁違いだった。阪神大震災を1年余取材し、『地震と社会』の著者でもある、朝日新聞前編集委員、外岡秀俊が被災地をルポした。

    ◇

 東日本大震災から1週間後の3月18日、朝日新聞社機で上空から被災地を見た。翌日から1週間、陸路で被災地を回った。東京からの走行距離約2300キロ。途方もない災厄に、戦慄した。

 上空から見るのは、鳥の目で俯瞰し、被災の全体像を知るためだった。福島第一原発西方50キロを北上し、仙台へ。浸水した仙台空港では格納庫から流れた飛行機やコンテナが散乱し、至るところに車が転がっている。平野が陥没したため、水が引かず、海と陸の区別がつかない。宮城県多賀城市、東松島市、石巻市。どこでも大きな船が陸地奥まで乗り上げ、白い横腹を見せる。橋は流され、橋脚しかない。流れた家屋が凄まじい水圧で押し上げられ、幾重にも積み上げられ、ひしゃげている。

 だが岩手県陸前高田市から、景色が一変した。何もない。孤立したコンクリートの建物以外、ただ泥土と水。何もない。

 血の気がひいた。

 北上山地が断崖となって海に落ちる三陸海岸は、津波の常襲地帯だ。すぐ先が深海であるため、遠地の地震が津波になって増幅する。ノコギリの歯のように屈曲したリアス式海岸の地形で津波の水位が急に高まり、河川沿いに陸深く押し寄せる。1896年の明治

三陸大津波では死者・安否不明者約2万2千人。1933年の昭和三陸津波では同約3千人。かつて被害が大きかったのも、その特異な地形ゆえだ。

 だが大船渡市や釜石市の湾口には堅牢な津波防波堤がある。過去2度の津波で壊滅した宮古市の田老地区も、高さ10メートル、総延長2・4キロの二重の防潮堤で守られているはずだ。

■仙台までに追い抜いたのは136台。まずい、と思った

 その願いも裏切られた。防波堤をあっさり越えた津波は、地上の人々と建物をなぎ倒し、引きずり去って、跡形もない。時速360キロの飛行機で1時間20分北上する間、一言も発することができなかった。

 1995年の阪神大震災でも当日に神戸入りし、翌日にヘリで上空から取材した。その後1年余にわたって現地を取材し、アエラでルポを連載した。

 だが今回は、あらゆる面で規模が桁違いだ。阪神では「震災の帯」と呼ばれる長さ約20キロ、幅約1キロの都市部の激震地帯に被害が集中した。今回は、長さ500キロにわたる沿岸に、M(マグニチュード)9・0のエネルギーが放出された。阪神大震災の1450倍である。もともと高齢化が進む過疎地。しかも被災した都市や集落は孤立している。いったい、地上で、何が起きているのか。

 上空を飛んだ日、同僚に頼んでカンパを募り、食料や水など救援物資を買い集めてもらった。被災者へのメッセージも寄せ書きにしてもらった。

 現地ではガソリンが不足し、車が使えない。緊急車両に指定された報道用車両なら、給油しながら移動できる。そう聞いて、取材にだけでなく、車を物資や人の搬送に用立てようと思った。

 東北道はがらがらだった。トラックや乗用車、タンクローリーなど、仙台までに追い抜いた車両は136台しかなかった。

 まずい、と思った。これでは被災地向け物資やガソリンだけでなく、仙台など支援拠点への物流や車の動きも止まる。

 20日朝、岩手県藤沢町に入った。自治医大同窓生と、日本プライマリ・ケア連合学会の合同プロジェクトが立ち上がり、先遣隊が藤沢町民病院に前線基地を設けたと聞いたからだ。

■救急医療の必要がないほど「生」と「死」が分断されていた

 島根・隠岐諸島診療所の白石吉彦医師と会い、情勢を尋ねた。

 「情報がない。足がない。それに尽きる」

 それが第一声だった。

 陸路、緊急車両で現地入りしたが、応援の医師を山形空港に送迎するのに手いっぱいで、足がないという。地元の車はガソリン切れで、すべて止まった。

 地元医師は、携帯電話を水にさらわれるか、持っていても通じない。どこで、誰が活動しているのか、わからない。

 白石医師によると、ふつう災害では患者に、救急優先度を4段階の色で示す「トリアージ」判定を行う。だが、津波では救急不能の「黒」か、救急不要の軽症を示す「緑」だけ。治療最優先の「赤」や、次に処置が必要な「黄」の被災者がいない。中間の救急医療の必要もないほど、「生」と「死」の領域がはっきりと分断されている。負傷者が多かった阪神大震災との大きな違いだ。

 白石医師らは、電話会社から現地で通じる携帯20台を無償で借り、地元医師に配った。さらに、自ら被災しながら、避難所で医療を続け、燃え尽きそうな地元医師を休ませるプロジェクトを始めた。

 気仙沼市の最大規模の避難所、市総合体育館「ケー・ウエーブ」に、内藤俊夫・順天堂大准教授をお連れした。昼は安置所で遺体を検死し、夜は当直に入って地元医を休養させている。遺体は警察が泥土を清め、医師が見る。半分ほどはポケットに財布があり、身一つで逃げたと知った。

 前夜の災害対策本部では、地元消防団から「遺体収容は、勘弁してほしい」という声があがった。遺体の大半が友人や顔なじみだ。泥にまみれ、砂をのんだ死に顔を見るのはつらい。警察や消防庁が引き受けることになった。灯油や重油がなく、荼毘に付すことも難しい。土葬が始まったという話も流れた。(つづく)

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