2011年3月21日10時56分
地震が起きた時、長野で練習をしていた。東北がすごいことになっていると聞き、すぐに出身地、気仙沼の両親に電話した。つながらなかった。16日になって仙台の姉のところに両親から連絡があった。衛星電話で1分間だけの会話。生きていたことがわかって、心からほっとした。
両親は気仙沼港近くで24時間営業の健康施設を営業している。逃げて助かったが、店は骨組みしか残っていないらしい。幸いにも生活は山の上にある自宅でできている。僕が毎年、シーズン後に送っていた野球用ジャンパーなどを避難所で配っているそうだ。
仙台育英高を経て1995年から日本ハム、阪神で計89勝したが、昨年、阪神から戦力外通告を受けた。一度は韓国の球団と契約したが、球団の理由で入団できなかった。今はBCリーグ信濃で練習させてもらい、どこかでプレーできる機会を待っている。
両親は「大丈夫」と言ってくれた。復興に向けて落ち着いたら僕が活躍する姿を見せたいという気持ちはある。だけど、今はスポーツを通じて勇気を与えられる状況ではない。ろくに食事もとれず、家族や知人はまず生きることに必死なのだから。被災地のみなさん、希望を持って励まし合って生きてください。僕はできる限りのことをする。