2011年3月13日13時23分
外部とつながる糸は、役場にある衛星携帯電話1台だけ。それさえもバッテリー切れ目前だ――。津波になぎ倒された家々のがれきが道路を寸断し、周囲との行き来を遮断された宮城県女川(おながわ)町。陸の孤島と化した海辺の町に12日入った。
線路を延々と歩き、親切な女性の車に同乗させてもらって、午前10時半すぎ、町の入り口にたどり着いた。
路面は材木や石が散らばる。もう車は進めない。
女川湾に面した町中心部まではあと5キロほど。山に挟まれた緩い上り坂の一本道を行くだけだ。
「おう! 新聞社! 向こう全滅だぞ! 何もねえぞ!」。眼鏡をかけた男性が大声で叫んだ。道路のところどころに散らばっていた木材やトタンなどの住宅の破片が次第に路面全体を覆う。道沿いに点在する住宅に、原形をとどめているものはない。
電線から大きなものがぶら下がっている。近づくと、私の背丈よりも大きな木造住宅の梁(はり)と天井とおぼしき板切れだった。ゆらゆらと不気味に揺れるすぐそばをこわごわ通り過ぎた。
やや開けた空間に出た。はるか向こうに青い海面。そこまでびっしり、がれきの山が積み重なる。もはや道路かどうかの区別さえつかない。
木材、トタン、ガラス、鉄骨。そうした住宅の残骸に混じるのは、サッカーボールに年賀状、レコード、電卓、とっくり……。24時間前には確かに存在した生活の断片が、悪臭を放つヘドロにまみれて転がる。
「退避! 退避! 避難だ!」。海辺に近い小高い丘の上から男性が大声で叫んでいる。周囲の人たちを追いかけて丘に上った。
男性は、再度の大津波襲来に備え、海面の上下に目をこらしていた。1時間ほどの間に50センチ〜1メートル前後の上下動を繰り返しているという。
「引き波の後に、またすごいのが来るかもしれないだろ」
丘の上から見る町は、ただただ、がれきの荒野だ。3階建てコンクリート造りのビルが横倒しになっている。電柱のてっぺん近くにプロパンガスのタンクが二つ引っかかってぶらぶら揺れている。
丘の上まで20メートル近い高さがあるのに、そこで車が2台積み重なっている。半分以上の家が破壊されたのではないだろうか。いったい、どんな津波が町を襲ったのか。
海辺で会社を経営する阿部繁夫さん(60)は、一部始終を見ていたという。
地震の後、すぐさま自宅にとって返し、妻らを車に乗せて丘に上がった。やれやれと思う間もなく、沖合から海水がもりもりと盛り上がった。岸壁をやすやすと乗り越え、一瞬で街をのみ込み、自分のいる丘に迫ってきた。
あわてて背後の病院に駆け込んだが、大水は病院1階の天井近くにまで達した。すぐ近くの3階建ての町役場も、海水に包まれた。
2階建ての銀行の屋上で助けを求めている人がいたが、あっという間に波にのまれ、姿が見えなくなった。「津波が来てから丘の上にまで達するのに1、2分……。そんなにかからなかったかもしれない。ぶわーっと、本当に一瞬で迫ってきた」
「こういう地形だからねえ」。ある女性がそうつぶやいた。震源地に向かい、大きく口を開けたかっこうの女川湾。そこに達した津波は、両サイドを山に挟まれたV字状の地形で、瞬時に高さを増したのだった。
携帯電話は「圏外」。電気も通っていない。女川町を外部とつなぐのは12日現在、役場が所有するバッテリーの尽きかけた衛星携帯電話1台だけだ。非常時に備え、町は普通の携帯電話が使えないときでも通話可能な衛星携帯を数台そろえてあった。しかし、丘の上の役場庁舎をのみ込んだ大津波のために水没。たまたま庁舎外に持ち出していた1台が幸運にも残った。
地震直後から、町幹部らは衛星携帯を使って県との連絡を試みた。しかし、いくらかけてもつながらない。
陸路も寸断されている。北側に抜けるルートは堤防道路が決壊し、鉄橋も一部が落ちてしまった。西隣の石巻市に抜ける国道398号も、約5キロにわたってがれきがびっしり路面を覆っている。
「本当に陸の孤島になってしまった」。鈴木浩徳・企画課長(50)は嘆く。町の状況が外部に伝わらないから、ラジオのニュースも「女川の情報はない」と言うばかりだ。
「何よりまず、通信環境の整備と道路の確保。それだけは一番に助けて欲しい」
外部の救援が届かない中、町は生存者の安否確認を進めている。しかし、約1万人の町民のうち12日正午までに生存確認できたのは3千人足らずだった。
安住宣孝町長(65)が駆け寄ってきた。「食料もない。水もない。トイレや赤ん坊のオムツもない。しかもこの寒さ。みんなまだ興奮状態にあるが、気持ちが落ち着いてきたらいろんな物資の不足がストレスになって襲ってくる。とにかく助けがほしい。早く助けに来てくれ。そう伝えてください」。必死のまなざしでそう言った。(松川敦志)